「私が初めて務めた病院に、家内がいた」
「……」
「あの頃は、専門学校なんてなかったからね。彼女は学校を卒業してすぐに、動物看護師として働いていた」
そこで横山先生は、キッチンでお菓子を作ってくれている奥さんに視線を移し、いたずらっ子のように笑うと小声になって。
「“私にどこかでまた逢いたくて、看護師になったんじゃないか”なんて思ってね。それを伝えたら、すごい勢いで怒鳴られて、引っ叩かれたっけなぁ」
「あー……」
先生のお父さんも獣医で、病院を持っていたから、先生がいつかそこを継ぐことを知っていた奥さんも、どこかでまた出逢えたらと思っていたのか。
「でもね、本当にそうだったんじゃないかと今は思うよ」
「先生、随分自惚れてますね」
「ははは。君も妻と同じことを言うんだなー」
その言葉の、二割が冗談。
残りの八割は――……。
「でも、本当にそうだったのかもしれないですね」
どこか自分の事と重ねてしまって、“そうであって欲しい”と思う気持ち。
“運命”なんてものがあるのかは知らないし、もしもあるとしたら、何の為に必死で生きているのかが分らなくなるけど……。
「俺もそうだといいなぁ」
少しだけ軽くなった心からそんな言葉が自然に漏れ出る。
それを聞いて、目尻にシワを寄せてにっこりとほほ笑んだ横山先生は、やっぱり“おじいちゃん”みたいだと思った。
「城戸君。君の人生には、まだまだ先がある。……私とは違ってね」
「そんな冗談やめて下さいよ」
「ははは。まぁ、でも人生は本当に分からない。これからいくらでも取り戻せるんじゃないかな?」
「……」
「人生なんて、失敗して落ち込んで反省して、そこから這い上がって……その繰り返しだ」
その柔らかい声も言葉も、表情も。
「やっぱり俺、横山先生が大好きっす」
「おー、それは嬉しいなぁ」
もしも人生の師匠なんてものを選ぶ日が来るとしたら、俺は間違いなくこの人を選ぶと思う。
「城戸君、そういえばね! 今度旅行に行くのよー」
「え?」
背後から突然話かけられて振り返ると、そこには焼き上がったばかりのケーキを手に持つ奥さんが立っていた。
相変わらず自由奔放と言うか、無邪気な人で、ついつい笑ってしまう。
そんな彼女の乱入を、少しだけ窘《たしな》めた横山先生。
きっとこんな風にしながらも、奥さんには頭が上がらないんだろうなぁ。

