絡む指 強引な誘い 背には壁 Ⅰ 

 榊はようやく書斎から出て来てくれる。
「悪い、急なレポートが当たって……」
「大変だね」
「まあな。食事でも行くか?」
「うん行く」
「何食べようか?」
「美味しいパスタ」
「うーん」
 2人は身支度を整えながら考える。
「ここからちょっと遠いけどいい?」
「どのくらい?」
「30分はかかる」
「いいわ。行く」
「飲まないなら車で行くけど」
「どっちでもいいけど……」
「じゃあタクシーで行くか」
「うん」
 さて、問題は何の問題もない食事が終わったその後である。荷物はホテルにおいて来ているので、すぐに一人でホテルへ帰るのが妥当だ。着替えがないこともあるし、せっかくホテルを予約していることもあるし。第一、そうするしかない。
 榊が拾ってくれたタクシーに2人は乗り込む。榊は今日何度目かの見事な発音で、ホテルの名を告げた。
「……英語、上手ね」
「もう何年も来てるから(笑)」
「最初はどうだった? 学生の頃とか」
「まあ、嫌いじゃなかったよ」
「そっかぁ、私、英語嫌いだから……」
「今は全然英語は使わない?」
「日本で暮らしているからね。でも勉強した方がいいかなぁ……。あ! エアメール!」
「あぁ、悪い。まだ一度も出してなかったな」
「ううん、いいの。英語で書いて。勉強するから」
「いいけど……」
「それで電話で答え合わせする」
「そんな(笑)。近況報告くらい……」
「分からないわ、多分。だってもう学校で習った英語なんて忘れちゃったもの」
「まあ、やらないよりはマシだ」
「離婚してよかった?」
 何の脈略もない。そう、すべてはワインの酔いのせいだから。
「……、悪くはなかったよ。今の生活は充実している」
「そう……。案外そんなものなのね」
「そうだな……。当時の状況からしてそうするのが一番良かったと思う。2人にとって」
「私ね……。会社の話なんだけど」
 香月は思いつきで、突然昔話を始めた。
「入社してすぐ、近くの小さい店舗に配属になったの。そこの店長は優しくて仕事ができて、普通のおじさんだった。年は40くらい。
 だけどある日、本社の人から店長と何か関係があるのかって聞かれて、けど、ないですってはっきり言ったの。だって本当に何もなかったから。
 で、本社の人がこんなことを聞いてきたんですよって店長に言ったら、本当は私のことが好きだって。店長の奥さんが会社に「うちの人、浮気してます」っていやがらせみたいな電話をかけてきたって。
 それから、その人は離婚したわ」
「その人にとって、それが一番良かったんだよ」