さすがにその言葉にはムッとくる。だが彼女はそんなこと気にもせずに、坂野咲医師に話しかけられるとこちらの存在などすぐに忘れた。
「はい、もういいですよー。奥さん、安静にしてやってくださいね」
「はい……もう……、しばらく休ませないといけないですね」
「そうですねー。予定ずらりだから厳しいかもしれないけど」
「……あ、香月さん、どうもありがとうございました」
その様子からすると、さっきの「付いてきた」には特に他意はないらしい。
「いえ……」
「もうしばらく休ませようと思います。ほんと、働きづめでしたから」
「そう……でしたか……」
簡易ベッドに移された榊はそのままころころと転がって行ってしまう。だが、妻は後を追わなかった。ここで、香月を払うつもりなのである。
「どうもすみませんでした。ありがとうございました。ほんとに」
「いえ……。では……私は……」
これで。
それ以外にどんな言葉もない。
今浮かばないだけではない。きっと一時間考えたところで、出てこないだろう。
榊の隣にいることができるのは、妻だけ。
それだけ。
結婚も、離婚も、全部なくなればいいのに。
右手を見て思い出す。今のいままであのシャツを握って支えていたのは私だったはずなのに。
たった紙きれ一枚のその座で、私はこんなにあさっさりと引き下がらなければならない。
妻が憎いのではない。
榊が憎いのではない。
多分、一番自分が憎いのだ。
こうやって、忘れられなくてそこから動けない、自分自身が一番憎いのだ。
妻は丁寧にお辞儀をして後ろを向いた。
榊の後を公の場で追いかけていく。
そのとき、ようやく気づいた。
今までずっと、榊と自分の間にはラインがあって、それは妻が引いているラインだと考えていた。
だが違った。
ラインは真ん中にあるけれど、向こう側には、榊と妻が2人よりそっていて。自分はこちら岸に一人だけ。
「香月さん、榊先生と知り合いだったんだね」
「え、あ、まあ……」
背後からの突然の切り出しに、歯切れは悪い。
「実は僕、これで上がりなんだけどね。もし宮下が休みだったら、どっか飲みにでも行く?」
そんな、そんな気分ではない。
「いえ……今日はすみません」
愛想笑いのひとつも出ない。
「あ、そう?」
「……」
もういいや。こんなところで疲れたくない。
香月はそのまま坂野崎のことなど忘れて、まっすぐ出口へ向かった。
「はい、もういいですよー。奥さん、安静にしてやってくださいね」
「はい……もう……、しばらく休ませないといけないですね」
「そうですねー。予定ずらりだから厳しいかもしれないけど」
「……あ、香月さん、どうもありがとうございました」
その様子からすると、さっきの「付いてきた」には特に他意はないらしい。
「いえ……」
「もうしばらく休ませようと思います。ほんと、働きづめでしたから」
「そう……でしたか……」
簡易ベッドに移された榊はそのままころころと転がって行ってしまう。だが、妻は後を追わなかった。ここで、香月を払うつもりなのである。
「どうもすみませんでした。ありがとうございました。ほんとに」
「いえ……。では……私は……」
これで。
それ以外にどんな言葉もない。
今浮かばないだけではない。きっと一時間考えたところで、出てこないだろう。
榊の隣にいることができるのは、妻だけ。
それだけ。
結婚も、離婚も、全部なくなればいいのに。
右手を見て思い出す。今のいままであのシャツを握って支えていたのは私だったはずなのに。
たった紙きれ一枚のその座で、私はこんなにあさっさりと引き下がらなければならない。
妻が憎いのではない。
榊が憎いのではない。
多分、一番自分が憎いのだ。
こうやって、忘れられなくてそこから動けない、自分自身が一番憎いのだ。
妻は丁寧にお辞儀をして後ろを向いた。
榊の後を公の場で追いかけていく。
そのとき、ようやく気づいた。
今までずっと、榊と自分の間にはラインがあって、それは妻が引いているラインだと考えていた。
だが違った。
ラインは真ん中にあるけれど、向こう側には、榊と妻が2人よりそっていて。自分はこちら岸に一人だけ。
「香月さん、榊先生と知り合いだったんだね」
「え、あ、まあ……」
背後からの突然の切り出しに、歯切れは悪い。
「実は僕、これで上がりなんだけどね。もし宮下が休みだったら、どっか飲みにでも行く?」
そんな、そんな気分ではない。
「いえ……今日はすみません」
愛想笑いのひとつも出ない。
「あ、そう?」
「……」
もういいや。こんなところで疲れたくない。
香月はそのまま坂野崎のことなど忘れて、まっすぐ出口へ向かった。

