大海の一滴


 玄関に入った瞬間、達之の期待は虚しくしぼんでしまった。
 家の空気に触れただけで、妻が居ないと分かってしまう自分が凄くもあり、哀しくもある。

(やっぱり、世の中そんなに甘くないな)
 達之は大きく肩を落とした。

 それにしても、社会というのは思い通りに行かないもんだとついでに苦笑もする。
出来る限り物音を立てないように革靴を脱いで、そろりそろりとリビングダイニングへ向かう。
電気はシンク上の細長い蛍光灯だけをつけて、コンビニ袋から五百ミリリットルの発泡酒を取り出した。

 シュパッ。

 自転車に揺られ爆発寸前だった炭酸が、プルタブから泡となって一気に溢れ出た。それを半分近く胃の中に流し込むと、内臓がジワーッと熱くなってくる。
 この瞬間だけは、サラリーマンであることを神様に感謝したくなる。

 最も、神様が存在すればの話だが。

 身体が急激に重みを増す。今日は回るのが少し早そうだ。
急いで自転車を漕いだせいか、それとも疲れのせいか。
アルコールが一気に血中に流れ込み、身体中を駆け巡る。

 グォーーーー。

(……空腹のせいかもしれないな)
 まるで生物のような腹の音に、そう言えば昼のサンドイッチ以外、何も口にしていなかったと思い出した。

 ガチャリ。
 両開きの冷蔵庫を静かに開くとチルドルームに、アボカドと海老のサラダが入っていた。

「これはこれは」
 海老とアボカドを指で行儀悪くつまみながら、発泡酒をまた一口ごくりと飲んだ。

 ……美味い!
 
 達之は薄暗闇の中一人大きく頷いてから、サラダと飲みかけの発泡酒を一旦テーブルに置き、もう一度キッチンへ向かう。
今度はオーブンレンジの蓋を開けてみる。

「おっ、今日はブリか」
 更なる好物を目にしてテンションが上がる。
 レンジの中には、焼きネギとブリの照り焼き、どんぶりに入った大盛りの白米、なめこと豆腐の味噌汁が、食堂の定食セットのようにきっちり揃えられて納まっていた。
 喧嘩中でも律儀に夕食を作ってくれているのが、我が妻美絵子らしい。

テーブルに一式を揃えると、いつものように音量を絞って、達之はテレビを付けた。