速水が再度義虎の屋敷を訪れたのは、夜になってからのことだった。

朱音と三人で会話をしていたとき、義虎がちらりと掛け軸を見たのは、伝えたいことがあるから一人でここに来るように、という意味だったのだ。

義虎は、咲里家に仕える忍者だった。彼は四十二歳というとしでありながら、まだ現役をつらぬいていた。

「朱音殿を見たときは、混乱した」

目の前に座る速水は、先ほどよりもかしこまった様子だった。

「何度か、夕様と姿が重なって見えてしまった。全く、私としたことが」

「違うでしょう、義虎様」

速水は、座ったときの様子と違い気軽な口調で言った。

「そんな話をするために俺を呼んだわけでは……」

「それほどまでに朱音殿は夕様に似ていた」

さっきよりも真剣な声であることに気付き、速水は口を閉じた。

「咲里家の姫君が帰ってきたという噂が広まっている」

考えてみれば当たり前のことだ。咲里家の者たちですら、騙されたのだ。夕を知っている者が朱音を見れば、間違えてもおかしくはない。

この辺りは咲里家が治めている。咲里家の姫君が帰ってきたということになれば、大きな事件だ。

なぜなら夕は、世間では行方不明ということになっているのだから。

「それが沢村の耳にも入ったようだ。私はそのことを伝えに、今から咲里家へ向かう」

「今からですか?」

速水が心配そうな顔をしたのに対し、義虎はふと笑みを見せた。

「大丈夫だ。これでも、現役で働いておるのだからな」

夜は忍者にとって、もっとも活動しやすい時間。だが。

「ですが義虎様。目にも衰えがきているのでは」

「……お前はそんなことしか言えんのか」

しかし、義虎はわかっていた。速水は本当に自分の身体を気遣ってくれているのだと言うことを。

「義虎様」

さっきまでとは打って変わって真剣な声に、部屋を出ようとした義虎が振り返った。
速水は夜中に出て行くことを心配しているのではなかった。

「どうか、心を決められたときをお忘れになってしまいませんよう。……成政様にも、お伝え下さい」

そう言って、速水は頭を下げた。義虎は、何とも言いがたい笑みを浮かべる。

「わかっておるよ。留守を頼んだぞ」