「別れても、好きでいていいですか…?」


 あの直後、加菜子を押し倒した櫂はドキリと胸を跳ねあげる。そんな櫂をよそに、加菜子は別れを惜しむかのように部屋の方々を見渡していた。

「……なぁ加菜子」

「なぁに?」

「おまえさ。いつもどんな気分なんだ?」

「は? どんな気分って……」

「いつも……幸せか?」

 そう問いかける櫂に、加菜子は満面の笑顔を返してきた。

「うん! とってもね!」

 たぶん──これが加菜子なのだ。

 いつもの加菜子に戻るということは幸せな加菜子に戻るということ。幸せだからいつもと同じでいられるということ。櫂と一緒だから──。

 それでいいのかもしれない。

 そして櫂は、窓の縁に腰かけた。

 もう夕日も街並みの中へと沈み、赤い空にはちらちらと星が見え始めていた。そろそろ飯でも食って帰るか、と櫂がいいかけた時ふと視界の片隅に何かを捉えた。

「……な!?」

 それは眼下に延びる一本の道路。夕焼けに照らされながら、一人の女性が歩いてくる──樫木美和だ。

「なんだってこんな時に……」

 実は、この引っ越しは極秘に行われていたのだ。櫂が自宅に戻ることはバイトの同僚も大学の連中も まだ誰も知らない。バカにされるのが嫌だというよりは美和対策だ。

 もちろんいつまでも欺き通せるわけではないが、しかしできるだけ時間を稼いで なんとかいいわけを考えようとしていた。櫂の本心を知っている美和が自宅に戻ることを知ったらどう考えても黙っていない。はっきりいって、修羅場だ。

「どうしたの? 深刻そうな顔しちゃって」

「…………。ほんと、バカ姉貴を持つと苦労が絶えないよ」



 確かに、生活だけを見れば元に戻るだけかもしれない。

 でも櫂は、後悔するのをやめにする。

 きっとふたりは以前よりも先に進めているから。

 ほんの少しだけかもしれない。そしてその方向が正しいのかさえ、まだわからないけれど。でも確実に。

 その結末がどうなっても、きっと加菜子を今以上に幸せにできる。

 だから──。



 美和が到着する残りの数分間、まったくいいわけが思い浮かばない頭の中で櫂はそんなことを考えていた。