戦後大阪万博会場となった千里丘陵から程近く、元は「ちさと山」と称していた北千里の小さな農山村であった。
それは終戦の10ケ月前、一歳の誕生日を迎えた頃であった。
疎開先に移り住んでまだ日も浅く、生活や習慣・ご近所さんとの関わり等何事にも様子が違っていた。
親父の軍務に関わる疎開とはいえ、日常の生活はその地の習わしが必然となる。
当時この地でも時折空襲警報のサイレンが山間に響く事態が生じていた。
にも関わらず大本営は「戦果」に明け暮れ、「戦禍」は覆い隠していた。
お袋と姉やの身にも、当地婦人部挺身隊に関わる作業・訓練に費やす時間が多くなり、子供達への眼は十分行届かなくなっていた。
一歳 歩き始めて間も無く全てが未知、親が居ない時は兄や姉の監視下、とはいえ7歳・4歳・2歳である。
床から50cmの高さにある窓によじ登る、何回かズリ落ちた後再々挑戦、よじ登った途端1m余の地面へ真逆さま、尖った小石が頭に刺さり気絶状態だったとのこと。