母様は部屋に入ってくると、奏の前にしゃがみ込んだ。若干冷や汗をかいている奏の顎を掴み、自分によく見えるように顔を上げさせた母様。
「あんたはあたしに似て、美人だからね。目だけはどうしてだか、似なかったがね」
母様は切れ長の目。しかし、奏の目はぱっちりと大きな目をしていた。それ以外は、実に似ていた。しかし、それだけで、顔の印象は大きく変わってしまう。母様は、その目が少し気にくわないようだった。
 しかし、お稽古の時の母様は鬼のように怖いけれど、普段はとても優しくて穏やかに笑いかけてくれるから、嫌われてはいないとわかる。奏は母様が大好きだった。優しくて綺麗で強い母様にあこがれを抱いていた。
 母様がお稽古の奏に厳しいのは奏のため。母様がこんなに強い人だから、幼い頃に父様を亡くした奏も奏の兄もしっかりとした人間に育つことができた。
 奏は母様のような立派な人間になりたくて、厳しいお稽古も嫌いにはなれなかった。たまに、辛いと泣き言を吐くこともあるけれど。
「母様。こちらですか」
「そうだよ。何か用かい?」
廊下から現れた、奏の大っ嫌いな兄様。兄様はとにかく奏の悪口を言ったり、からかったりする。それに、無視をするのだ。だから嫌い。
 しかし、顔が大好きな父様ととても似ていた。幼い頃の、うっすらとした記憶の中の父様だけれど。
「俺は仕事の関係で出かけます」
「今日は休みだろ?」
「急用で。何かいるものはありませんか?帰りに買ってきますんで」
「それじゃ。お塩を頼んだよ。なくなりそうでね」
「わかりました。それでは、いって参ります」
「いってらっしゃい」
それだけの業務のような会話。兄様は一度も奏に目を向けなかった。存在を知らなかったような、そんな感じだった。
 それだけなのに、奏はむっとした。
 父様がなくなる前は、こんな兄妹関係ではなく。もっと仲のよい兄妹だったはずなのに。
 どうして、兄様は奏に冷たくなったのだろう。もう長い間追究してきたこと。結局今までわからずじまいで。ただただ、兄様が苦手で嫌いになっていくばかりだった。
 軽く頭を下げて去っていく、兄様の足音が小さくなって、消えた。