「……ぶ」
ぶ?
「こんな場所でいきなり叫ぶとか、あんた頭おかしーんじゃね」
なんですと?
隣を見やる。
少し上にあるカッターシャツの肩が、こらえきれないってふうにぶるぶると震えている。
「だ、だってあなたがそう言って」
「おれは『叫べ』なんて言ってない」
くくく、と喉を鳴らすみたいにして笑う人、はじめて見た。
あんまり笑いたくなさそうに笑うんだ。なんか、へんなの。
視界の上のほうで、さらさらの黒髪が軽快なリズムを刻んで揺れていた。
湿気なんかものともしていないって感じのつやつやな髪。
どこのメーカーのトリートメント使ってるんだろ。
ところで。
いままで視界が涙に濡れていたせいで気づかなかったけど、黒髪の下にあるお顔、もしかしてけっこう、いやかなり、美しいんじゃないの。
「……見すぎ」
いつのまにか笑いの熱を放出しきった彼が、まじまじその顔を見上げるわたしにむかって、嫌そうに言う。
整った顔に気づいてしまうと、なんとなくいたたまれなくて、あわてて目をそらした。
「見てないしっ」
だけど、その先に広がっていた史上最低な光景を見てしまうくらいなら、文句を言われても彼の顔を見ていたほうがずっとよかったよ。
「あ……」
「なに?」
「ヤ……ヤスくんのっ、ヤスくんのばかああああ!!」
車道を挟んで反対側。
ついきのう別れたばかりの元彼がもう知らない女の子と歩いていた。
それも、きのうまでわたしに見せてくれていたのとまったく同じ、とびきり優しい笑顔を浮かべて。
きっとすべてを察したであろう、ヤスくんに負けず劣らずなイケメンが隣で小さく息を吐く。
そしてわざわざ腰をかがめてわたしの顔を覗きこんできた。
「泣くか怒るか、どっちかにすれば?」
うう。ちくしょう。きれいな顔しちゃって。
こんなにイケメンならばさぞかし失恋などしたこともないのでしょうね。
タイミングが良いのか悪いのか、そこでちょうどバスがやって来た。
どうやら彼はこのバスに乗って帰るらしい。
わたしは路線が違うから、これの一本あとのやつだ。
「……ちょっとつきあって」
それなのに、いきなりぐいと手を引かれて。
怒って泣いて驚いているうちに、わけもわからず、なぜかわたしはバスに揺られていたのだった。
𓂃◌𓈒𓐍



