重なる平行線

幾度も私の名を復唱する。それは私の名前ではなくて、水貴自身に問うている気がした。

だけど水貴が今質問しているのは、紛れもない私自身で。


死なない理由。



「…否定したくないから」



死は、結果でしかない。
自身の死が周りにどう影響しようと、自分には何ら関わりがなくなる。死後の世界はどうあれ、死んだ時点で生は終わっている。
死が続くだけで生はそこで止まる。


私は今までに、実の両親に殺されかけたことが何度もある。

餓鬼の頃から、明確な殺意に触れあって、それでも生きていた。


死への恐怖はなかった。

生の意味は知らなかった。

死んだってよかった。

ただ、
『親に殺される』ことが、悲しくて哀しくて怖くて恐くて。
悔しくて。
それだけが厭だったから、がむしゃらに生きてきた。


年を重ねて、ある程度の知識を得た時。
『警察』や『児童相談所』、…『虐待』等を知った頃から、親は過ぎた暴行をするだけで命に関わる暴力はしなくなった。
その時に考えた。

『今なら死ねる』と。
―自殺。
それは、自らの生を否定すること。

だけど想った。
それじゃあ、あの時生きていた私はなくなってしまうのか。

生きる意味もあやふやに、ただ生きていたあの頃の幼い私がいた。

記憶や思い出という過去が、今という人格をつくりあげる。
トラウマだって、立派な記憶だ。

殺されたくないと思って生きた私がいたから、今の私がいる。

自殺が生を否定するなら、過去も否定することになる。
それは同時に、小さな私の紡いだモノも、私も、否定してしまう。

それだけは嫌だった。
せめて私の生きた証は、自分で守りたかった。

そんな下らなくて大切な理由が
今の私を怠惰に生かしている。