電車のドアが開き、降りる客と乗り込む客の中、黒川は女の座る座席の前で一歩も、指一本動かさずにいた。
はじめての経験だ。それも、大衆の前で・・・
黒川は泣きたくなった。
こういう瞬間が人生の終わりを告げるものなのかもしれない。だが、あの医者よりは心に繰るものがあった。
実感が余りにもありすぎたためだ。

「すみませんでした」

黒川は車内に響くほど、大きな声で謝った。
周囲からは携帯で、黒川の姿を写真に納めている者や笑い事のように友人たちと指を指して見ていた。
深々と頭を下げた瞬間、黒川の肩を誰かがつかんだ。

(おしまいだ)

黒川はそう感じた。
涙をこらえながら、捕まれた左肩を見ると・・・
掴んでいたのは女だった。

「えっ・・・」

一瞬、黒川はどうしてだと思えた。悪いのは私だ。
これは事故だ。
しかし、女には一生心に傷を追わせるようなことをした。
それなのに、黒川を助けようとした。
黒川は女につられながらも、車内から出た。
ホームに出ると同時に電車の扉が閉まった。
静かに、しかし所所に加速する電車はやがて次の目的地屁と旅立っていった。
その姿を、方を捕まれながら、眺める黒川・・・
電車が見えなくなると、これまでのことが夢物語のように感じた。
だが、黒川の左肩には女で捕まれている。
恐る恐る、黒川は女の方を見た。

「気にしてないので」

女は無表情で言った。
そのまま、背を向けて、高田馬場の改札口のある方へ歩き出した。

「あ・・・ありがとう」

黒川は背を向けた女に感謝の言葉を言った。
女は腕を後ろに組んだ。
高そうな白い鞄が目にはいった。

「ありがとう」

階段を降りていく女のうしろ姿を見つめながら、再度お礼を口にした。