「芹梨ちゃん、」
何の前触れもなくその話題が始まったから、俺はプルタブにかけた指を一瞬止めた。
かちっという紺の缶が開く音と、その甘い液体が紺の喉を滑る音だけが非常階段に響いている。
「…芹梨が、何」
「泣いてたよ、彼女」
缶から唇を離して言った紺の言葉に、俺は少なからず衝撃を受けていた。
…泣いていた?
「…まさか。だってあいつ、聞こえないし」
その衝撃を悟られない様に、俺は軽く笑ってコーヒーを開けた。
そうだ。芹梨は聞こえない。
俺があの時何を言ったのか、彼女が聞いていたはずがない。
けど紺は、同じトーンで俺のその仮説を否定した。
「気付いてないの?遥。芹梨ちゃん、いつも遥の口元が見える場所にいるんだよ。今日だけじゃない。最初からずっと…お前の言葉だけは聞き逃さないようにって」



