「お待たせ。」


クリニックの裏の駐車場で車に乗り込みながら、助手席の女性に向かって言った。


「今日はずいぶんと遅かったのね、”林先生”?」


振り返らずに窓の外を見ながら、その女性は皮肉っぽく答えた。


「…”智也”。
病院の外で逢う時は”先生”って呼ばなくて良いって言ってるだろ、雫。
今日は入院の急患が入って時間がかかってしまったんだよ。
ごめんね?」


林先生…もとい、智也が謝った。


「それよりどうしたんだい?
今日は水曜だよ。
メールが来てビックリしたんだけど…何かあったの?」


「…別に。
ちょっと調子が良くないだけよ…」


黒くて長い髪をサラっとなびかせながら、ようやく雫は智也の方を向いた。



「そうかい、もう21時か…。
お腹空いただろ?
何が食べたい?」


雫は再び、ふぃっと助手席の窓の方を向き、外を見た。


「…今日は半月なのね…」

「そうだね…。
君のように満たされていない。」


雫は智也の方に向き直り、冷たい右手で智也の頬を触った。


「何もいらない。
智也だけで、お腹も心も満たして。」


その冷たい手に自分の手を重ねながら、智也はシートベルトを締めた。

雫に対して、これ以上言葉はいらないだろう。


智也は雫の自宅へ向けて車を走らせる事にした。


(満たされない月…黒い空の中で1滴の”雫”だけが光を放つ…)


そんな事を智也はボンヤリと考えた。



昼間はひっそりと身を潜めて暖かそうに、だけど、どこか寂し気に笑っていた半月も、夜の闇の中では何者にも邪魔される事なく、我が物顔で唇を吊り上げ、怪しい笑みを浮かべていた。