「何故です?」

かすれた声で反問する。
急に変った空気に緊張して喉がカラカラに乾いていることに僕はその時初めて気付いた。

「先生、何か僕が失礼なことを……」

「いや、あなたは何も悪くない」
先生はかぶりを振り、何も悪くない、ともう一度口の中で繰り返した。

そして、ソファに凭れ、足の上で組まれた両手の上にその思考を逡巡させ始めた。

先生の表情を盗み見れば、何ともならないものをどうにかしようとしているようにも見える。

手持無沙汰な僕は手前に置かれたコーヒーにミルクを落とす。
透き通った琥珀色が温かみを持った茶色に変わる様に、目の前の先生を重ね合わせる。

おそらく先生の中ではこんな風に色々なものが溶け合って、何かがあぐねているのだろう。

僕にできることはただ、こうして待つことだけだ。

しかしだんだん申し訳ないような気持になって、ついに僕は口を開いた。

「思い入れが、深すぎますか?」

先生が僕の言葉に目を上げる。
そこには今の言葉への同意がくっきりと見て取れた。

でしたら他の絵にした方がいいですか、と続けようとしたこの問いを先生は宙に浮かせたままで先生は姿勢を改め、大事な宝物を包んでいるような両手をテーブルに投げ出した。

「あなた、テープレコーダーは回していますか?」

僕は首を横に振る。
それを見た先生は手を開き、そこに視線を動かす。

「では少し、この年寄りの与太話に付き合ってもらいましょうか」

そうして先生は話し始めた。
まるで手の上に開かれたお伽噺を読むように。