☆☆☆☆☆
だいぶ時間が経ってから
オフィスに戻ると。
課長のデスクは空席。
そしてあたしの席の
隣では、瑞樹クンが何事も
なかったような顔で、
キビキビとデスクワークしてた。
「……………」
どうしよう……。さっきの
あたしの行動を、不審に
思ってないわけがないよね。
だけどここではみんなが
いるから、何もなかった
ように振る舞ってるのかな……?
_「瑞樹クン、あの……」
おずおずと声をかけると
――意外にもあたしの声を
遮るように、今度は彼の
方から言葉をかぶせてきた。
「遅いですよ、莉央さん。
どこ行ってたんですか。
――ハイこれ、さっきの
交渉でもぎ取った、予算
削減バージョンの見積もり」
「あ、ありがと……」
ピッと目の前に差し
出された紙を反射的に
受け取って、力のない声で
お礼を言うあたし。
_瑞樹クンはそんなあたしを
一瞬だけチラッと見て。
やや間をあけた後で、少し
声のトーンを落として続けた。
「……宇佐美課長、
早退したんで。
押印は明日でいいですよね」
「………あ、うん。
そうだね……」
普通の声を装ったつもり
だったけど、やっぱり
かすかに声が震えた。
瑞樹クンはそれっきり特に
何も言わず、またデスク
ワークに取りかかる。
_それからはあたしも押し
黙ったまま仕事をして、
いつの間にか終業の時間に
なろうとしてた。
残業してやるべきことは
いくらでもあるけど、
今日は精神的にそんな
気分になれない。
どうしようかって迷って
たら、突然、瑞樹クンが
声をかけてきた。
「莉央さん。
実はオレ、予約開始後の
流れでちょっとわかんない
とこあるんだよね。
よかったら今日、残って
教えてもらえません?」
_「え? 今日?」
「ウン。早い方がいいだろーし。
ダメかな?」
口調は下手に確認してる
けど、なんかその瞳には
『NO』って言えない強い
光がある。
あたしは仕方なく頷いて、
「……いいわよ。
で、何がわからないの?」
「んー。ここじゃ気が散る
から、どっか移動できないかな。
そーだ、最初の頃研修で
使ってた、あの小さい
会議室とか」
_「B会議室?
そりゃ、空いてれば
使えると思うけど……」
わざわざ別室まで行く
ほどのことなの? って
思ったけど。
それを質問するスキを
与えず、瑞樹クンは
『わかった』って言うと、
さっさと会議室の空きを
見に出て行ってしまう。
そしてすぐに戻ってきて、
空いてたって教えてくれた。
「――そう。じゃあ、行こっか」
_結局押し切られる形で、
瑞樹クンと一緒に
B会議室に移動した。
静かな空間の中で、資料を
見ながらしばらく彼の
質問に答える。
1時間ほど経ったところで
それは終わり、
「よし。じゃあこれで、
もうわからない事はないよね?」
「ウン、よくわかった♪
ありがとー、莉央さん」
「別にお礼なんていいよ。
それじゃあ、今日はもう
帰ろっか」
_そう言って、机の上を
片付けようと腰を浮かした時。
瑞樹クンの鋭い声が、
あたしの動きをさえぎった。
「あ、ちょっと待って。
もう一つだけ、聞きたい
ことあるから」
「え――…?」
『聞きたいこと』って
言われただけだけど。
その、さっきまでとは全然
違うシリアスな口調で、
あたしはすぐに気づく。
……彼が聞こうとしてる
のは、仕事のことじゃないって。
_「―――な、なに?」
続きを聞くのは怖かった。
でも他に言いようも
なくて、引きつった笑みを
浮かべてそう返事すると……。
「――昼間のこと。
そろそろ、聞いてもいいよね?」
「……………!」
やっぱり、思ったとおり。
あんな不自然な行動
しといて、気にならない
わけないよね。
だけど彼なりの気遣いで、
仕事が終わるまでは聞く
のを待っててくれた。
――そういうことなのかな。
_「あの、えっと………」
言い訳を考えてなかった
わけじゃない。
なのになぜか瑞樹クンを
前にすると、その嘘を
スラスラと口にすることが
できなかった。
口ごもるあたしに、瑞樹
クンは静かな声で、
「宇佐美課長の奥さんには
適当にごまかしといたよ。
んでオレが課長を呼びに
行って、その後すぐに
二人で帰ってった」
「そ、そう……」
_奥さんには不審がられて
ないってわかって、少し
だけ安心する。
だけど同時に、肩を並べて
仲良く帰ってく姿を想像
しちゃって、キュッと
胸が痛んだ。
「ホントはさ。
前から少し、気になって
たんだよね。
莉央さんも課長も、時々
なんかぎこちないし」
「え………!?」
あたしはギクッとして
瑞樹クンを見た。
_(ウソ……もしかして、
気づいてるの!?)
「だけど、今日ので確信
しちゃったかも。
課長にも、莉央さんといる
時に奥さんに出くわした、
って言ったらギョッとしてたし」
「か、課長に言ったのっ!?」
頭を殴られたみたいな
ショックだった。
そんな――知られたく
なかったのに。
奥さんと対面して、
あたしがブザマに
逃げ出しただなんて。
_瑞樹クンを責めるなんて
お門違いだってわかってる。
だけどどうしても、非難
するような目を向けてしまう。
そんなあたしを、瑞樹
クンはまっすぐに見返してきた。
そして、なぜか少しだけ
苦痛を感じるように頬を
ゆがめながら、
「言ったよ。
だって実際そうだったし。
隠すなんておかしいじゃん」
「そ、それはそうだけど……」
_「悪いけどオレには、
莉央さんの事情につき合う
理由がないから。
理由も聞いてないのに、
隠し事につき合うなんて
ゴメンだからね」
「―――――!!」
その言葉は突き刺すように
あたしの胸にささる。
でも、ただ傷ついた
からじゃない。
その言葉が胸にささるのは
――それが、図星だからだ。
(瑞樹クンの言うとおりだ……)
_後ろめたいのは、あたしだけ。
隠さなきゃいけないような
ことをしてた、あたし達が悪い。
なんの関係もない瑞樹
クンに配慮を期待する
なんて、あたしの方が
虫がよすぎるよ。
「ゴメン……」
情けなさでいっぱいに
なりながら、低い声で謝った。
恥ずかしすぎて瑞樹クンの
顔もまともに見れない。
俯いてるあたしの耳に、
フッと、彼の短いため息が届く。
_そして、さっきとは打って
変わった穏やかな口調で、
「わかってくれればいいよ。
ゴメンね。どーにもオレ、
嘘つくのって苦手でさ」
「ううん。瑞樹クンが謝る
必要なんてない」
嘘が苦手で、思ったことを
すぐ口にしちゃう。
……そんな素直な性格が、
うらやましいな。
そんなふうに素直で
いられるのは、瑞樹クンが
誰にも恥ずかしくない
生き方をしてる証拠。
_あたしもそんなふうに、
正面から胸を張れたら――…。
(……やめよう。
こんなこと考えたって、
なんの意味もないよ)
あたしの過去は、
消せないんだから。
無意識のうちにプルプルと
頭を振ってたあたしは、
ふと、すぐそばに人の
気配が強くなったのを
感じて顔をあげた。
――ある程度距離をあけて
隣に座ってたはずの瑞樹
クンが、いつの間にか
すごく近くにいてドキッとする。
_「み、瑞樹クン……?」
たじろぐあたしを正面から
見据えて、彼は、静かな
声で聞いてきた。
「――それで?
もう、教えてよ。
莉央さんと、課長のコト」
「瑞樹クン――…」
今さら話す必要もない
くらい、きっと瑞樹クンは
全部気づいてると思うん
だけどな。
でも……そうだよね。
あたし自身が、
ちゃんと話さなきゃ。
_あたしは胸の中でひそかに
決心して、軽く息を
吸ってから話し出した。
「瑞樹クンが考えてる通りだよ。
少し前まで、つき合ってたの。
不倫ってヤツだよ」
『サイテーだよね』って
つけ加えて、あたしは
自嘲ギミに笑った。
どうしてなのかわかんない
けど、なぜだか笑いが
あふれて止まらない。
だけどもちろん瑞樹クンが
一緒になって笑ったりする
ことはなくて。
_彼は感情のわからない無表情で、
「やっぱり、そーか」
ポツリと、そうつぶやく。
「瑞樹クン鋭いから、
お見通しだったんだね。
一応、誰にもバレて
ないんだけど」
「オレだって、今日までは
確信があったわけじゃ
ないけどね。
でもそっか……今はもう、
違うんだ?」
「ウン。
今はもう、お互い納得の
うえで別れてる。
だけどやっぱり、何事も
なかったようにはいかなくてさ」
_「それで、奥さんからも
逃げちゃった……?」
聞きながら、瑞樹クンは
背中を丸めてあたしの顔を
下から覗き込んできた。
彼のキレイな顔が近く
なって、あたしは心臓が
トクンと跳ねるのを感じる。
「ウ、ウン。情けないでしょ。
それに迷惑もかけちゃって
ゴメンね。
軽蔑していいよ、バカな
センパイだって」
_早口でまくし立てると、
瑞樹クンはちょっと驚いた
ように目を丸くして、
「軽蔑なんてしないよ。
そりゃまぁ不倫とか、
個人的にはどーかなって
思うタイプだけどね。
だけど誰だって、好き
このんで不倫なんてしない
だろーし」
『そうならざるをえない
事情が、莉央さん達にも
あったんでしょ』。
瑞樹クンは、そう言葉を続ける。
_(ありがと―――優しいん
だね、瑞樹クン)
たとえそれが本心じゃ
ないにしても、今のあたし
にはすごく嬉しい言葉だった。
あたしを理解しようと
してくれてる、その言葉が。
「それにさ。
実を言うとオレも、清廉
潔白な恋愛以外はダメだ!
なんて言えるほどキレイな
身でもないんだよね」
「え………?」
意外なセリフにビックリ
したけど、すぐにあたしは
思い出す。
_(もしかして、前の仕事の
ことを言ってるのかな……?)
瑞樹クンの前職――
ホストの仕事。
あれはいわば、女のコの
恋心を利用してお金儲け
してるわけだもんね。
ただ――あたしには
やっぱり、こんなに素直で
まっすぐな瑞樹クンが
ホストやってたなんて話、
信じられないんだけど……。
「瑞樹クン……昔ホスト
やってたっていうの、
ホントなの?」
_思い切って尋ねると、
瑞樹クンは一瞬の間の後
肩をすくめて笑った。
「なんだ、知ってたんだ。
ミチさん達から聞いた?」
「ウン……ゴメン」
「別にいいよ。
口止めしてたわけじゃないし。
――ホントだよ。
ハタチの頃から、先月までね」
「そう――なんだ――…」
やっぱり、ホントだったんだ。
「あんなアコギなこと
やってたんだからね。
オレにも、偉そうに莉央
さんを説教する資格なんて
ないってこと」
_そう言うと、瑞樹クンは
目を細めて恥ずかしそうに
ヘヘッと笑った。
だけどしばらく笑うと、
その笑みをフッとかき消して、
「だけどそのおかげでさ。
オレ、女のコの心情には
だいぶ敏感になったんだよね。
莉央さんの様子がおかしい
のに気づいたのも、それでかも」
「あは……そうかもね。
2年間誰にもバレなかった
のに、新人の瑞樹クンに
バレちゃうんだもん」
_あたしは曖昧に笑って
そう答える。
―――その時。
頬をかすめるように
フワッと、ささやかな
風が起こった。
ハッとした次の瞬間……
思いがけない状況に、
あたしは心臓が止まり
そうなくらい驚く。
……風を起こしたのは、
瑞樹クンの掌。
そのヒンヤリと冷たい
指先が、そっと……
あたしの頬に触れてて――…。
「みみ、瑞樹ク――!?」
_あまりの動揺にまともに
声も出なかった。
体は石になったみたいに
固まっちゃってる。
そんなあたしの頬に触れた
まま、瑞樹クンは囁く
ように言った。
「だから、オレには
わかるんだよね。
莉央さん――ホントは
まだ、課長のことが忘れ
られてないんでしょ?」
(え――――!?)
声にはならなかったけど、
すごくドキリとした。
_瑞樹クンはどこか神秘的な
光をたたえた瞳で、話を続ける。
「まだ好きなんじゃない?
課長のこと。
だからなかなか、
ふっ切れない――」
「……そんな……こと……」
ようやく声に出せたのに、
結局また語尾は途切れて
しまった。
――『そんなことないよ』。
そう言おうと思ったのに、
言えなくて。
そう……あたし自身、もう
とっくに気づいてるからだ。
_そんな言葉は、ただの強がり。
そうだよ。――あたしは
まだ、ふっ切れてない。
あたしは今でも、
課長のことを……。
――だけどやっぱりそれを
口に出すのはためらわれた
から、あたしは黙ってた。
瑞樹クンはあたしの
気持ちを察してくれた
のか、それ以上は答えを
求めてこない。
その代わり彼は、吐息が
触れるくらいあたしの
耳元に唇を寄せて、こう囁いた。
_「よかったら―――
課長のこと、オレが忘れ
させてあげよっか?」
「……………!?」
自分の耳を疑って――
瞬時に胸がすごい
速さで打ち出す。
「な、なに言って……!?」
「あれ、オレのこと
信用できない?
オレ、女のコの扱いは
うまいよ?」
(上手・ヘタじゃなくて……
ど、どういうつもりで
言ってんの!?)
_この状況が信じられない。
瑞樹クンが、課長のことを
忘れさせる?
それってどーゆーイミ!?
瑞樹クンがこんなこと言う
なんて、ウソだよね――!?
「……莉央さん、頬が熱いよ?
もしかしてドキドキしてる?」
あたしの心をあざ笑うかの
ように響く、瑞樹クンの
楽しそうな声。
それにその中に見え隠れ
する、甘い響き――…。
_あたしはなんだか、熱に
浮かされたみたいに頭が
ボーッとしてきた。
どうしていいかもわから
なくて、ただ、瑞樹クンに
触れられるまま。
すると彼は椅子から立ち
上がって、あたしの膝に
体が触れるくらいの距離で
あたしの隣に屈み込み――…、
「オレに任せとけば大丈夫だよ。
すぐに、課長のことなんか
どうでもよくして
あげるからさ――」
そして彼の顔が、グッと
あたしの目の前に迫って――…。
_「ダッ、ダメーーッ!!」
唇が触れるか触れないかの
距離で。
ようやくあたしはそう
叫んで、弾かれたように
立ち上がった。
ガタッと椅子から数歩
とびのいて、瑞樹クンとの
距離をとる。
そして、キョトンとした
顔でこっちを見てる
瑞樹クンに向かって、
「ダ、ダメだよこーゆーのはっ!
好きでもないのに、ダメ!
それにここ、会社だしっ」
ほとんどひっくり返った
声で、わめくみたいに
そう言った。
_だって、こんなことで好き
だった人を忘れるなんて
間違ってるもの。
あたしにはそんなこと、
できない――。
必死の思いで言ったセリフ
だったのに。
瑞樹クンは、パチッと1回
瞬きをすると――火が
ついたかのように、急に
プッと笑い出した。
(え、え………!!?)
ア然とするあたしの前で、
彼はさらにアハハと笑い続けて、
「よかった。
やっと、莉央さんらしい
声が出たね♪」
_「な、な……!?」
「そうそう、莉央さんは
そーやって元気な方が
似合ってるよ。
弱々しいのなんて莉央さん
らしくない」
瑞樹クンはそんなことを
言いながら何事もなかった
ように立ち上がって、
スーツの膝についた埃を
パンパンと払ってる。
――混乱してたあたしも、
徐々に状況が飲み込めてきた。
(もしかして、わざと
あんなことを?)
あたしを、『元気』にする
ために?
_(――本気じゃ、
なかったんだ――…)
ホッとしたような、
気が抜けたような。
複雑な内心を隠すために、
あたしは必要以上に大声で
彼に食ってかかった。
「な、なにが“元気”よ!
こんなの元気とは言わない
でしょっ!?」
すると瑞樹クンは悪びれた
感じもなくまた笑って、
「そう?
大丈夫大丈夫、いっぱい
メシ食って腹の底から
声出してたら、そのうち
元気になるって。
うちのばーちゃん、
いっつもそう言ってたから」
_「はぁ!? ばーちゃんって
……あのねぇっ!?」
(おばあさんの教えを守る
のはいいけど、試すなら
もっとマシなやり方に
してよぉ〜っ!)
心の中で悲痛な叫びを
上げて、あたしはへなへな
とその場に崩れそうになる。
と、瑞樹クンが素早い
動きであたしの腕をとって
支えてくれて、
「……ゴメンね、そんなに
ビックリしたんだ。
まさか本気にするとは
思わなくてさ」
_「……………」
………本気にしたわよ。
だってあんなに真剣な目で
見られたら、もしかしたら
…って思っちゃうじゃない。
「ふふっ、ホントに莉央
さんはカワイイなぁ♪
オレが元ホストだって
知ってんでしょ?
あれくらいサラッと
言えなきゃ、ホストなんて
やってらんないよ?」
そう言うと、瑞樹クンは
あたしを見下ろして
イタズラッぽく笑った。
――その背後に、悪魔の
しっぽが見えたみたいな
気がする。
_「………もうっ、知らないっ!!」
あたしは投げつけるように
そう言うと、持って来てた
書類を乱暴につかんで、
ドスドスと出口に歩き出す。
「あ、待ってよ!
オレも戻るって!」
瑞樹クンがあわてて後ろを
追いかけて来たけど、
ゼッタイに振り返って
なんかやらなかった。
☆☆☆☆☆
_
だいぶ時間が経ってから
オフィスに戻ると。
課長のデスクは空席。
そしてあたしの席の
隣では、瑞樹クンが何事も
なかったような顔で、
キビキビとデスクワークしてた。
「……………」
どうしよう……。さっきの
あたしの行動を、不審に
思ってないわけがないよね。
だけどここではみんなが
いるから、何もなかった
ように振る舞ってるのかな……?
_「瑞樹クン、あの……」
おずおずと声をかけると
――意外にもあたしの声を
遮るように、今度は彼の
方から言葉をかぶせてきた。
「遅いですよ、莉央さん。
どこ行ってたんですか。
――ハイこれ、さっきの
交渉でもぎ取った、予算
削減バージョンの見積もり」
「あ、ありがと……」
ピッと目の前に差し
出された紙を反射的に
受け取って、力のない声で
お礼を言うあたし。
_瑞樹クンはそんなあたしを
一瞬だけチラッと見て。
やや間をあけた後で、少し
声のトーンを落として続けた。
「……宇佐美課長、
早退したんで。
押印は明日でいいですよね」
「………あ、うん。
そうだね……」
普通の声を装ったつもり
だったけど、やっぱり
かすかに声が震えた。
瑞樹クンはそれっきり特に
何も言わず、またデスク
ワークに取りかかる。
_それからはあたしも押し
黙ったまま仕事をして、
いつの間にか終業の時間に
なろうとしてた。
残業してやるべきことは
いくらでもあるけど、
今日は精神的にそんな
気分になれない。
どうしようかって迷って
たら、突然、瑞樹クンが
声をかけてきた。
「莉央さん。
実はオレ、予約開始後の
流れでちょっとわかんない
とこあるんだよね。
よかったら今日、残って
教えてもらえません?」
_「え? 今日?」
「ウン。早い方がいいだろーし。
ダメかな?」
口調は下手に確認してる
けど、なんかその瞳には
『NO』って言えない強い
光がある。
あたしは仕方なく頷いて、
「……いいわよ。
で、何がわからないの?」
「んー。ここじゃ気が散る
から、どっか移動できないかな。
そーだ、最初の頃研修で
使ってた、あの小さい
会議室とか」
_「B会議室?
そりゃ、空いてれば
使えると思うけど……」
わざわざ別室まで行く
ほどのことなの? って
思ったけど。
それを質問するスキを
与えず、瑞樹クンは
『わかった』って言うと、
さっさと会議室の空きを
見に出て行ってしまう。
そしてすぐに戻ってきて、
空いてたって教えてくれた。
「――そう。じゃあ、行こっか」
_結局押し切られる形で、
瑞樹クンと一緒に
B会議室に移動した。
静かな空間の中で、資料を
見ながらしばらく彼の
質問に答える。
1時間ほど経ったところで
それは終わり、
「よし。じゃあこれで、
もうわからない事はないよね?」
「ウン、よくわかった♪
ありがとー、莉央さん」
「別にお礼なんていいよ。
それじゃあ、今日はもう
帰ろっか」
_そう言って、机の上を
片付けようと腰を浮かした時。
瑞樹クンの鋭い声が、
あたしの動きをさえぎった。
「あ、ちょっと待って。
もう一つだけ、聞きたい
ことあるから」
「え――…?」
『聞きたいこと』って
言われただけだけど。
その、さっきまでとは全然
違うシリアスな口調で、
あたしはすぐに気づく。
……彼が聞こうとしてる
のは、仕事のことじゃないって。
_「―――な、なに?」
続きを聞くのは怖かった。
でも他に言いようも
なくて、引きつった笑みを
浮かべてそう返事すると……。
「――昼間のこと。
そろそろ、聞いてもいいよね?」
「……………!」
やっぱり、思ったとおり。
あんな不自然な行動
しといて、気にならない
わけないよね。
だけど彼なりの気遣いで、
仕事が終わるまでは聞く
のを待っててくれた。
――そういうことなのかな。
_「あの、えっと………」
言い訳を考えてなかった
わけじゃない。
なのになぜか瑞樹クンを
前にすると、その嘘を
スラスラと口にすることが
できなかった。
口ごもるあたしに、瑞樹
クンは静かな声で、
「宇佐美課長の奥さんには
適当にごまかしといたよ。
んでオレが課長を呼びに
行って、その後すぐに
二人で帰ってった」
「そ、そう……」
_奥さんには不審がられて
ないってわかって、少し
だけ安心する。
だけど同時に、肩を並べて
仲良く帰ってく姿を想像
しちゃって、キュッと
胸が痛んだ。
「ホントはさ。
前から少し、気になって
たんだよね。
莉央さんも課長も、時々
なんかぎこちないし」
「え………!?」
あたしはギクッとして
瑞樹クンを見た。
_(ウソ……もしかして、
気づいてるの!?)
「だけど、今日ので確信
しちゃったかも。
課長にも、莉央さんといる
時に奥さんに出くわした、
って言ったらギョッとしてたし」
「か、課長に言ったのっ!?」
頭を殴られたみたいな
ショックだった。
そんな――知られたく
なかったのに。
奥さんと対面して、
あたしがブザマに
逃げ出しただなんて。
_瑞樹クンを責めるなんて
お門違いだってわかってる。
だけどどうしても、非難
するような目を向けてしまう。
そんなあたしを、瑞樹
クンはまっすぐに見返してきた。
そして、なぜか少しだけ
苦痛を感じるように頬を
ゆがめながら、
「言ったよ。
だって実際そうだったし。
隠すなんておかしいじゃん」
「そ、それはそうだけど……」
_「悪いけどオレには、
莉央さんの事情につき合う
理由がないから。
理由も聞いてないのに、
隠し事につき合うなんて
ゴメンだからね」
「―――――!!」
その言葉は突き刺すように
あたしの胸にささる。
でも、ただ傷ついた
からじゃない。
その言葉が胸にささるのは
――それが、図星だからだ。
(瑞樹クンの言うとおりだ……)
_後ろめたいのは、あたしだけ。
隠さなきゃいけないような
ことをしてた、あたし達が悪い。
なんの関係もない瑞樹
クンに配慮を期待する
なんて、あたしの方が
虫がよすぎるよ。
「ゴメン……」
情けなさでいっぱいに
なりながら、低い声で謝った。
恥ずかしすぎて瑞樹クンの
顔もまともに見れない。
俯いてるあたしの耳に、
フッと、彼の短いため息が届く。
_そして、さっきとは打って
変わった穏やかな口調で、
「わかってくれればいいよ。
ゴメンね。どーにもオレ、
嘘つくのって苦手でさ」
「ううん。瑞樹クンが謝る
必要なんてない」
嘘が苦手で、思ったことを
すぐ口にしちゃう。
……そんな素直な性格が、
うらやましいな。
そんなふうに素直で
いられるのは、瑞樹クンが
誰にも恥ずかしくない
生き方をしてる証拠。
_あたしもそんなふうに、
正面から胸を張れたら――…。
(……やめよう。
こんなこと考えたって、
なんの意味もないよ)
あたしの過去は、
消せないんだから。
無意識のうちにプルプルと
頭を振ってたあたしは、
ふと、すぐそばに人の
気配が強くなったのを
感じて顔をあげた。
――ある程度距離をあけて
隣に座ってたはずの瑞樹
クンが、いつの間にか
すごく近くにいてドキッとする。
_「み、瑞樹クン……?」
たじろぐあたしを正面から
見据えて、彼は、静かな
声で聞いてきた。
「――それで?
もう、教えてよ。
莉央さんと、課長のコト」
「瑞樹クン――…」
今さら話す必要もない
くらい、きっと瑞樹クンは
全部気づいてると思うん
だけどな。
でも……そうだよね。
あたし自身が、
ちゃんと話さなきゃ。
_あたしは胸の中でひそかに
決心して、軽く息を
吸ってから話し出した。
「瑞樹クンが考えてる通りだよ。
少し前まで、つき合ってたの。
不倫ってヤツだよ」
『サイテーだよね』って
つけ加えて、あたしは
自嘲ギミに笑った。
どうしてなのかわかんない
けど、なぜだか笑いが
あふれて止まらない。
だけどもちろん瑞樹クンが
一緒になって笑ったりする
ことはなくて。
_彼は感情のわからない無表情で、
「やっぱり、そーか」
ポツリと、そうつぶやく。
「瑞樹クン鋭いから、
お見通しだったんだね。
一応、誰にもバレて
ないんだけど」
「オレだって、今日までは
確信があったわけじゃ
ないけどね。
でもそっか……今はもう、
違うんだ?」
「ウン。
今はもう、お互い納得の
うえで別れてる。
だけどやっぱり、何事も
なかったようにはいかなくてさ」
_「それで、奥さんからも
逃げちゃった……?」
聞きながら、瑞樹クンは
背中を丸めてあたしの顔を
下から覗き込んできた。
彼のキレイな顔が近く
なって、あたしは心臓が
トクンと跳ねるのを感じる。
「ウ、ウン。情けないでしょ。
それに迷惑もかけちゃって
ゴメンね。
軽蔑していいよ、バカな
センパイだって」
_早口でまくし立てると、
瑞樹クンはちょっと驚いた
ように目を丸くして、
「軽蔑なんてしないよ。
そりゃまぁ不倫とか、
個人的にはどーかなって
思うタイプだけどね。
だけど誰だって、好き
このんで不倫なんてしない
だろーし」
『そうならざるをえない
事情が、莉央さん達にも
あったんでしょ』。
瑞樹クンは、そう言葉を続ける。
_(ありがと―――優しいん
だね、瑞樹クン)
たとえそれが本心じゃ
ないにしても、今のあたし
にはすごく嬉しい言葉だった。
あたしを理解しようと
してくれてる、その言葉が。
「それにさ。
実を言うとオレも、清廉
潔白な恋愛以外はダメだ!
なんて言えるほどキレイな
身でもないんだよね」
「え………?」
意外なセリフにビックリ
したけど、すぐにあたしは
思い出す。
_(もしかして、前の仕事の
ことを言ってるのかな……?)
瑞樹クンの前職――
ホストの仕事。
あれはいわば、女のコの
恋心を利用してお金儲け
してるわけだもんね。
ただ――あたしには
やっぱり、こんなに素直で
まっすぐな瑞樹クンが
ホストやってたなんて話、
信じられないんだけど……。
「瑞樹クン……昔ホスト
やってたっていうの、
ホントなの?」
_思い切って尋ねると、
瑞樹クンは一瞬の間の後
肩をすくめて笑った。
「なんだ、知ってたんだ。
ミチさん達から聞いた?」
「ウン……ゴメン」
「別にいいよ。
口止めしてたわけじゃないし。
――ホントだよ。
ハタチの頃から、先月までね」
「そう――なんだ――…」
やっぱり、ホントだったんだ。
「あんなアコギなこと
やってたんだからね。
オレにも、偉そうに莉央
さんを説教する資格なんて
ないってこと」
_そう言うと、瑞樹クンは
目を細めて恥ずかしそうに
ヘヘッと笑った。
だけどしばらく笑うと、
その笑みをフッとかき消して、
「だけどそのおかげでさ。
オレ、女のコの心情には
だいぶ敏感になったんだよね。
莉央さんの様子がおかしい
のに気づいたのも、それでかも」
「あは……そうかもね。
2年間誰にもバレなかった
のに、新人の瑞樹クンに
バレちゃうんだもん」
_あたしは曖昧に笑って
そう答える。
―――その時。
頬をかすめるように
フワッと、ささやかな
風が起こった。
ハッとした次の瞬間……
思いがけない状況に、
あたしは心臓が止まり
そうなくらい驚く。
……風を起こしたのは、
瑞樹クンの掌。
そのヒンヤリと冷たい
指先が、そっと……
あたしの頬に触れてて――…。
「みみ、瑞樹ク――!?」
_あまりの動揺にまともに
声も出なかった。
体は石になったみたいに
固まっちゃってる。
そんなあたしの頬に触れた
まま、瑞樹クンは囁く
ように言った。
「だから、オレには
わかるんだよね。
莉央さん――ホントは
まだ、課長のことが忘れ
られてないんでしょ?」
(え――――!?)
声にはならなかったけど、
すごくドキリとした。
_瑞樹クンはどこか神秘的な
光をたたえた瞳で、話を続ける。
「まだ好きなんじゃない?
課長のこと。
だからなかなか、
ふっ切れない――」
「……そんな……こと……」
ようやく声に出せたのに、
結局また語尾は途切れて
しまった。
――『そんなことないよ』。
そう言おうと思ったのに、
言えなくて。
そう……あたし自身、もう
とっくに気づいてるからだ。
_そんな言葉は、ただの強がり。
そうだよ。――あたしは
まだ、ふっ切れてない。
あたしは今でも、
課長のことを……。
――だけどやっぱりそれを
口に出すのはためらわれた
から、あたしは黙ってた。
瑞樹クンはあたしの
気持ちを察してくれた
のか、それ以上は答えを
求めてこない。
その代わり彼は、吐息が
触れるくらいあたしの
耳元に唇を寄せて、こう囁いた。
_「よかったら―――
課長のこと、オレが忘れ
させてあげよっか?」
「……………!?」
自分の耳を疑って――
瞬時に胸がすごい
速さで打ち出す。
「な、なに言って……!?」
「あれ、オレのこと
信用できない?
オレ、女のコの扱いは
うまいよ?」
(上手・ヘタじゃなくて……
ど、どういうつもりで
言ってんの!?)
_この状況が信じられない。
瑞樹クンが、課長のことを
忘れさせる?
それってどーゆーイミ!?
瑞樹クンがこんなこと言う
なんて、ウソだよね――!?
「……莉央さん、頬が熱いよ?
もしかしてドキドキしてる?」
あたしの心をあざ笑うかの
ように響く、瑞樹クンの
楽しそうな声。
それにその中に見え隠れ
する、甘い響き――…。
_あたしはなんだか、熱に
浮かされたみたいに頭が
ボーッとしてきた。
どうしていいかもわから
なくて、ただ、瑞樹クンに
触れられるまま。
すると彼は椅子から立ち
上がって、あたしの膝に
体が触れるくらいの距離で
あたしの隣に屈み込み――…、
「オレに任せとけば大丈夫だよ。
すぐに、課長のことなんか
どうでもよくして
あげるからさ――」
そして彼の顔が、グッと
あたしの目の前に迫って――…。
_「ダッ、ダメーーッ!!」
唇が触れるか触れないかの
距離で。
ようやくあたしはそう
叫んで、弾かれたように
立ち上がった。
ガタッと椅子から数歩
とびのいて、瑞樹クンとの
距離をとる。
そして、キョトンとした
顔でこっちを見てる
瑞樹クンに向かって、
「ダ、ダメだよこーゆーのはっ!
好きでもないのに、ダメ!
それにここ、会社だしっ」
ほとんどひっくり返った
声で、わめくみたいに
そう言った。
_だって、こんなことで好き
だった人を忘れるなんて
間違ってるもの。
あたしにはそんなこと、
できない――。
必死の思いで言ったセリフ
だったのに。
瑞樹クンは、パチッと1回
瞬きをすると――火が
ついたかのように、急に
プッと笑い出した。
(え、え………!!?)
ア然とするあたしの前で、
彼はさらにアハハと笑い続けて、
「よかった。
やっと、莉央さんらしい
声が出たね♪」
_「な、な……!?」
「そうそう、莉央さんは
そーやって元気な方が
似合ってるよ。
弱々しいのなんて莉央さん
らしくない」
瑞樹クンはそんなことを
言いながら何事もなかった
ように立ち上がって、
スーツの膝についた埃を
パンパンと払ってる。
――混乱してたあたしも、
徐々に状況が飲み込めてきた。
(もしかして、わざと
あんなことを?)
あたしを、『元気』にする
ために?
_(――本気じゃ、
なかったんだ――…)
ホッとしたような、
気が抜けたような。
複雑な内心を隠すために、
あたしは必要以上に大声で
彼に食ってかかった。
「な、なにが“元気”よ!
こんなの元気とは言わない
でしょっ!?」
すると瑞樹クンは悪びれた
感じもなくまた笑って、
「そう?
大丈夫大丈夫、いっぱい
メシ食って腹の底から
声出してたら、そのうち
元気になるって。
うちのばーちゃん、
いっつもそう言ってたから」
_「はぁ!? ばーちゃんって
……あのねぇっ!?」
(おばあさんの教えを守る
のはいいけど、試すなら
もっとマシなやり方に
してよぉ〜っ!)
心の中で悲痛な叫びを
上げて、あたしはへなへな
とその場に崩れそうになる。
と、瑞樹クンが素早い
動きであたしの腕をとって
支えてくれて、
「……ゴメンね、そんなに
ビックリしたんだ。
まさか本気にするとは
思わなくてさ」
_「……………」
………本気にしたわよ。
だってあんなに真剣な目で
見られたら、もしかしたら
…って思っちゃうじゃない。
「ふふっ、ホントに莉央
さんはカワイイなぁ♪
オレが元ホストだって
知ってんでしょ?
あれくらいサラッと
言えなきゃ、ホストなんて
やってらんないよ?」
そう言うと、瑞樹クンは
あたしを見下ろして
イタズラッぽく笑った。
――その背後に、悪魔の
しっぽが見えたみたいな
気がする。
_「………もうっ、知らないっ!!」
あたしは投げつけるように
そう言うと、持って来てた
書類を乱暴につかんで、
ドスドスと出口に歩き出す。
「あ、待ってよ!
オレも戻るって!」
瑞樹クンがあわてて後ろを
追いかけて来たけど、
ゼッタイに振り返って
なんかやらなかった。
☆☆☆☆☆
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