☆☆☆☆☆
広報部での挨拶を終えて、
次は総務部に向かうために
社内を移動してると。
廊下を歩いてる最中に、
唐突に柳瀬クンが話し
かけてきた。
「あの、さっきは
すいませんでした。
なんかオレのせいで
騒がしくなっちゃって」
「……………!」
それまでは仕事に関する
話しかしてなかったのに、
ホント急であたしは一瞬
言葉につまっちゃう。
_でもすぐに気を取り
直して、極力落ち着いた
声を意識しながら、
「……もういいよ。
まぁ、今度からあーゆー
冗談はやめといてくれれば。
うちの若いコ達は、まだ
まだノリが学生だからさ」
「そーみたいですね。
気をつけます。
でも――さっきのは別に
冗談じゃないですよ?」
「………はっ!?」
ああ、せっかく冷静ぶって
たのに、一瞬で声が
上擦ってるよ(涙)
_冗談じゃなかったら……
じゃあなんだって言うのよ!?
「松嶋センパイこそ、
高校生みたいに顔真っ赤に
して必死になってたから、
なんかかわいい人だなー
って思って。
オレ、思ったことはすぐ
口に出ちゃうんですよね」
「なっ、なっ………!」
頭にカーッと血が
のぼってくのがわかる。
『高校生』!?
『かわいい』!!?
_「……そっ、そーゆー
発言をやめろって言って
るんでしょっ!!」
結局あたしはまた、顔を
真っ赤にして大声をあげる
ハメになってた。
廊下でいきなり叫んだもん
だから、柳瀬クンも
ギョッとして、
「す、すいませんっ。
でもあの、冗談だって
誤解されてるのもアレかな
と思って――」
_「そんなのどっちだって
いいわよっ。
まったく……みんなの前で
そんなこと言ってたら、
また変に騒がれるわよ!?」
「ゴメンナサイ……」
ひたすら謝る柳瀬クンに、
あたしはようやく少し
落ち着きを取り戻して、
大きく息をはいた。
(ホントにもー、カンベン
してよぉ〜。
このコ、自分のルックス
自覚して言ってんのぉ?)
_またどっと疲れた気が
して、歩きながらなんか
どんどん背中が丸まって
るんじゃないかって思っちゃう。
その背中に、柳瀬クンが
背後からまたこりずに
呼びかけてきた。
「あ、そーいえば……」
(今度はナニッ?)
内心軽く構えながら
黙って振り返ると、
「ここって、みんな名前で
呼び合ってんですね。
オレみたいに“センパイ”
とか、誰も言ってない感じ?」
_「ん? あ、まあ……そうね」
たしかにうちの部はみんな
仲よくて、下の名前で
呼び合ってる。
誰も、“センパイ”なんて
言うコはいないな。
「それじゃあオレも名前で
呼んでもいいですか?
莉央さん、でしたよね?」
「え…………」
ドキン。
……まただ。
もぉ……どーしちゃった
のよ、あたしの心臓!?
_名前呼ばれたくらいで、
何をそんなに動揺してんの??
「……いいわよ、別に」
あたしはけっこうな間を
置いて、やっと普通の声の
トーンで返事した。
部の風習からすれば、ダメ
って言う理由なんてないし
こう答えるしかない。
それを聞いた柳瀬クンは、
ホッとしたようにフワッと
笑って、
「ありがとうございます、
莉央さん」
って言った。
_そして独り言みたいに
続けて、
「オレのことも、みんな
“瑞樹”って呼んで
くれるかな〜」
なんてつぶやいてる。
あたしはそんな彼から
そっと目をそらして、
もう一度小さくため息を
ついた――…。
☆☆☆☆☆
_ ☆☆☆☆☆
1時間ほど残業して、
言われてた柳瀬クンの
研修スケジュールを考えて
まとめあげた。
ちなみに、柳瀬クンは
定時で帰ってる。
他にも半分くらいのコは
もう帰ってて、オフィスは
昼間よりはだいぶ静かに
なってた。
「――よし、これでいいや」
プリントアウトした紙を
最後にホチキスでとめて、
あたしはすぐに席を立つ。
_オフィスの奥の方に独立
してる宇佐美課長の席まで
歩いて行って、
「課長。
研修スケジュール、できました」
そう言って作った資料を
差し出すと、課長は明るい
顔でパッとあたしを見上げた。
「お、できたか。お疲れさん。
急に言いけて悪かったなー。
すっかり残業になっちまったな」
「――いえ、別に……」
たしかに急ではあった
けど、1時間程度の残業、
そんなに珍しいことでもない。
_課長はすぐに資料に目を
通し始めて、ザッと全体を
見終わると、
「そうだな、だいたいは
こんな感じでいいだろう。
ただ、松嶋はこういうの
初めてだからな。
2、3話しておきたい
ことがある。
もうちょっとだけ、時間
いいか?」
「え………?」
てっきり資料提出して
終わると思ってたから、
戸惑った声をもらすと。
_課長は
『そんな顔するなよ』って
言わんばかりに苦笑して、
「たいして時間はとらないよ。
そうだな……急な残業の
お詫び代わりに、コーヒー
でもおごってやるから。
な?」
言って、オフィスの出口
の方を指でクイッと示す。
外にある、自販機と休憩
スペースを指してるんだろう。
どうしよう……。
返答に困ってたら、少し
離れた所から別の声が
飛んできた。
_「遠慮しないでおごって
もらっときな、莉央。
これから1ヶ月大変なん
だから、コーヒー1杯じゃ
安すぎるくらいよ〜」
「沙織さん……」
声の主は、同じく残ってた
チーフの沙織さんだ。
あたしが遠慮してるって
思ったのか……。
沙織さんのセリフを
受けて、課長も水を得た
ように大きく頷いて、
「そーゆーことだ。
さ、行くか」
_そう言って席を立つと、
あたしがついて来るか
確認もしないでサッサと
歩き出した。
「あ………!」
もう……あたしまだ、行く
なんて言ってないのに。
だけど、課長はもう出口の
辺りまで歩いて行っちゃってる。
(もう……一体どーゆー
つもりなのよ!)
あたしは渋々、課長の後を
追いかけた。
_二人とも廊下に出てから、
課長は初めて振り返って
あたしがついてきてるのを
確認して。
同じ階にある休憩室に
着くと、自販機でホット
コーヒーを2つ買った。
時間が時間だし、休憩室は
あたし達以外誰もいない。
課長はいくつかある
テーブルの一番手近な
所に座って、
「まぁ、お前も座れ」
そう言って、勝手に自分の
向かいの席にあたしの分の
コーヒーを置く。
_あたしは無言でその席に
座り、コーヒーから立ち
のぼる湯気を見つめた。
「――そんな顔するなって。
飲めよ。
これはホントに、残業の
お詫びだから」
「…………」
『これは』って、なによ。
じゃあ、ここまで連れて
来た理由は、別にあるって
ゆーの……?
「研修についての話なら、
あそこで続ければよかった
んじゃないですか……?」
_――ようやく。
あたしはそれだけを、低い
くぐもった声で言った。
課長はその質問には答え
なくて、短い沈黙が流れる。
やがて静かに長い息を
つきながら、課長は
ポソリと呟くように言った。
「二人きりになっても――
もう、敬語でしか話して
くれないんだな――…」
「……………!!」
_あたしは膝の上に置いた
手にギュッと力を込めた。
言葉は出ない。
なんて言っていいのか
わかんない。
――敬語でしか話さない、
って……。
……当たり前じゃん。
だってあたし達は、
“課長”と“部下”なんだよ?
こうやって接する以外、
どうしろってゆーのよ……。
――そんなあたしの心の
声が、課長に届いたのか
どうかはわかんない。
_課長はコーヒーを一口
飲むと、そのカップを
テーブルに戻して、
「別れた男と一緒に働く
のは、そんなに苦痛か……?」
って。
あたしには絶対言って
欲しくなかった、禁断の
コトバを、投げかけた。
「――やめて……下さい。
そーゆー言い方……」
それしか、言えない。
_……ひどいよ、課長。
あたし達は、ただの
“上司”と“部下”だって。
そういう関係に戻ったん
だって、必死で言い聞かせ
ながら、あたしは毎日
仕事してるのに。
――もちろん、わかってる。
まだ完全に割り切って
接することができなくて、
自分の態度が不自然に
なってることは。
だけど、それでも――
そんなセリフは言わないで
ほしかった。
_“昔のオトコ”としての
表情を、二度とあたしの
前ではしてほしく
なかったのに――…。
……ギュッと手を握り
しめたまま、俯いてる
だけのあたしに。
課長はためらいつつも、
次の言葉を発した。
「だけど……心配だろ。
いつもオレを避けるように
してるし、態度だって
ぎこちないし……」
――当たり前でしょ。
別れてまだ数ヶ月だよ?
そんなに簡単に、何事も
なかったように話なんて
できるわけないじゃない。
_「ほっとけないよ。
莉央は、オレの大事な
部下でもあるんだ。
オレ、莉央には本当に
感謝してて――…」
「莉央って呼ばないで!」
我慢できなくて、反射的に
そう叫んでた。
「その呼び方は、
もうダメだよ……!」
課長が下の名前を呼び
捨てにするのは、二人で
会ってるときだけだった。
“課長”としての“宇佐美
潤”は、あたしのこと
『松嶋』としか呼ばないん
だから……。
_「―――悪い」
重苦しい空気の中、課長は
低くそう謝った。
動揺の現れか、テーブルの
上で左手の人差し指を
トントンとやり出す。
手持ちぶさたになったり
冷静さが欠けてくると
こうして指を動かすのは、
昔からの癖だ。
だけど――ヤだな、なんて皮肉。
音に反応してついそっちを
見ちゃったあたしの目に
飛び込んできたのは、
左手の薬指で鈍い光を
放つリング。
_もう何年もそこにあって、
しっかりとなじんでる。
――彼の、結婚指輪。
(もう、ホントにダメだ、
こんなの。
本当にあたし達は、ただの
仕事仲間に戻らなきゃ――…!)
「――もう、心配なんて
してくれなくてけっこうです。
あたしは、大丈夫ですから」
声が震えそうになるのを
必死で抑えてそう言うと、
あたしは立ち上がった。
_そのまま脇目もふらず
出口に歩き出した背中に、
『あっ、待てよっ!』って
声がかかる。
だけどもう、あたしは
振り返りもしない。
一目散にオフィスに戻ると
荷物をつかんで、飛び出す
ように会社を出た。
外に出ると、1月の切り
つけるように冷たい風が
肌を突き刺す。
急いでて閉めてなかった
コートの前を閉めて、
ストールを巻いて。
_何事もなかったように
颯爽と歩こうって、必死に
胸を張った。
――宇佐美課長とは、
最初から不倫だった。
20歳で入社したときから
ずっとあたしの上司だった
彼と、23歳の頃に
つき合い出した。
奥さんがいるのは知ってる。
でも、ずっと憧れてて
尊敬してて――ひそかに、
好きだった。
そんな彼とたまたま二人で
ひとつの仕事を手がける
ことがあって、そのとき
二人で飲みに行ったりして
グッと親密になって。
_彼はその頃、奥さんとの
仲があんまりうまく
いってなかった。
でも、険悪だってほどじゃない。
どこの夫婦にでもある
倦怠期ってゆーかすれ違い
ってゆーか、その程度。
だけど彼は、そんな少し
疲れる家庭生活の息抜き
を、あたしに求めてくれたんだ。
あたしは、それでもよかった。
不倫でも愛人でも二番目
でも、彼に愛してもらえる
ことの方が嬉しかった
から、受け入れた。
_そうして、人には言えない
つき合いを2年間続けて
きたけれど――…。
別れたのは3ヶ月前。
……あたしの方から切り
出して、二人で話し合いも
して、最終的にちゃんと
合意のうえで別れた。
理由は、彼の奥さんに
赤ちゃんができたから。
それを初めて聞いたとき、
奥さんへの嫉妬をまず
抱いた自分がいた。
_奥さんと冷め切ったわけ
じゃないことも、彼に
家庭を捨てる気がない
ことも、承知のうえだった
はずなのに。
なのに、どうしても
悔しくて、ショックで。
嫉妬に狂って、新しい命の
誕生を喜べない。
そんな自分が、サイテー
だって思った。
それに、これを機に夫婦は
関係を修復できるかもしれない。
ううん、きっとそのための
チャンスなんだろう。
_だとしたら、あたし達は
もう終わりにしなきゃ、って。
そう思ったから、別れた。
もう二度と、彼を『潤』
とは呼ばない。そう誓って。
あたしはただの部下に戻る
って、誓ったのに――…。
不倫の代償。
道ならぬ恋におぼれてた
ことに、罪がないだなんて
思ってない。
_わかってる。
あたしのしてたことは、
ヒドいことだ。
道徳に反する、サイテーな
行為だ。
わかってる――
けど――……。
その代償を、平気な顔で
受け止められるほど。
あたしの心は、
強くも、凍ってしまっても
なくて。
ただ、恋を失った
ショックでもろくなった
心が、切ない悲鳴を
あげてた……。
☆☆☆☆☆
_
広報部での挨拶を終えて、
次は総務部に向かうために
社内を移動してると。
廊下を歩いてる最中に、
唐突に柳瀬クンが話し
かけてきた。
「あの、さっきは
すいませんでした。
なんかオレのせいで
騒がしくなっちゃって」
「……………!」
それまでは仕事に関する
話しかしてなかったのに、
ホント急であたしは一瞬
言葉につまっちゃう。
_でもすぐに気を取り
直して、極力落ち着いた
声を意識しながら、
「……もういいよ。
まぁ、今度からあーゆー
冗談はやめといてくれれば。
うちの若いコ達は、まだ
まだノリが学生だからさ」
「そーみたいですね。
気をつけます。
でも――さっきのは別に
冗談じゃないですよ?」
「………はっ!?」
ああ、せっかく冷静ぶって
たのに、一瞬で声が
上擦ってるよ(涙)
_冗談じゃなかったら……
じゃあなんだって言うのよ!?
「松嶋センパイこそ、
高校生みたいに顔真っ赤に
して必死になってたから、
なんかかわいい人だなー
って思って。
オレ、思ったことはすぐ
口に出ちゃうんですよね」
「なっ、なっ………!」
頭にカーッと血が
のぼってくのがわかる。
『高校生』!?
『かわいい』!!?
_「……そっ、そーゆー
発言をやめろって言って
るんでしょっ!!」
結局あたしはまた、顔を
真っ赤にして大声をあげる
ハメになってた。
廊下でいきなり叫んだもん
だから、柳瀬クンも
ギョッとして、
「す、すいませんっ。
でもあの、冗談だって
誤解されてるのもアレかな
と思って――」
_「そんなのどっちだって
いいわよっ。
まったく……みんなの前で
そんなこと言ってたら、
また変に騒がれるわよ!?」
「ゴメンナサイ……」
ひたすら謝る柳瀬クンに、
あたしはようやく少し
落ち着きを取り戻して、
大きく息をはいた。
(ホントにもー、カンベン
してよぉ〜。
このコ、自分のルックス
自覚して言ってんのぉ?)
_またどっと疲れた気が
して、歩きながらなんか
どんどん背中が丸まって
るんじゃないかって思っちゃう。
その背中に、柳瀬クンが
背後からまたこりずに
呼びかけてきた。
「あ、そーいえば……」
(今度はナニッ?)
内心軽く構えながら
黙って振り返ると、
「ここって、みんな名前で
呼び合ってんですね。
オレみたいに“センパイ”
とか、誰も言ってない感じ?」
_「ん? あ、まあ……そうね」
たしかにうちの部はみんな
仲よくて、下の名前で
呼び合ってる。
誰も、“センパイ”なんて
言うコはいないな。
「それじゃあオレも名前で
呼んでもいいですか?
莉央さん、でしたよね?」
「え…………」
ドキン。
……まただ。
もぉ……どーしちゃった
のよ、あたしの心臓!?
_名前呼ばれたくらいで、
何をそんなに動揺してんの??
「……いいわよ、別に」
あたしはけっこうな間を
置いて、やっと普通の声の
トーンで返事した。
部の風習からすれば、ダメ
って言う理由なんてないし
こう答えるしかない。
それを聞いた柳瀬クンは、
ホッとしたようにフワッと
笑って、
「ありがとうございます、
莉央さん」
って言った。
_そして独り言みたいに
続けて、
「オレのことも、みんな
“瑞樹”って呼んで
くれるかな〜」
なんてつぶやいてる。
あたしはそんな彼から
そっと目をそらして、
もう一度小さくため息を
ついた――…。
☆☆☆☆☆
_ ☆☆☆☆☆
1時間ほど残業して、
言われてた柳瀬クンの
研修スケジュールを考えて
まとめあげた。
ちなみに、柳瀬クンは
定時で帰ってる。
他にも半分くらいのコは
もう帰ってて、オフィスは
昼間よりはだいぶ静かに
なってた。
「――よし、これでいいや」
プリントアウトした紙を
最後にホチキスでとめて、
あたしはすぐに席を立つ。
_オフィスの奥の方に独立
してる宇佐美課長の席まで
歩いて行って、
「課長。
研修スケジュール、できました」
そう言って作った資料を
差し出すと、課長は明るい
顔でパッとあたしを見上げた。
「お、できたか。お疲れさん。
急に言いけて悪かったなー。
すっかり残業になっちまったな」
「――いえ、別に……」
たしかに急ではあった
けど、1時間程度の残業、
そんなに珍しいことでもない。
_課長はすぐに資料に目を
通し始めて、ザッと全体を
見終わると、
「そうだな、だいたいは
こんな感じでいいだろう。
ただ、松嶋はこういうの
初めてだからな。
2、3話しておきたい
ことがある。
もうちょっとだけ、時間
いいか?」
「え………?」
てっきり資料提出して
終わると思ってたから、
戸惑った声をもらすと。
_課長は
『そんな顔するなよ』って
言わんばかりに苦笑して、
「たいして時間はとらないよ。
そうだな……急な残業の
お詫び代わりに、コーヒー
でもおごってやるから。
な?」
言って、オフィスの出口
の方を指でクイッと示す。
外にある、自販機と休憩
スペースを指してるんだろう。
どうしよう……。
返答に困ってたら、少し
離れた所から別の声が
飛んできた。
_「遠慮しないでおごって
もらっときな、莉央。
これから1ヶ月大変なん
だから、コーヒー1杯じゃ
安すぎるくらいよ〜」
「沙織さん……」
声の主は、同じく残ってた
チーフの沙織さんだ。
あたしが遠慮してるって
思ったのか……。
沙織さんのセリフを
受けて、課長も水を得た
ように大きく頷いて、
「そーゆーことだ。
さ、行くか」
_そう言って席を立つと、
あたしがついて来るか
確認もしないでサッサと
歩き出した。
「あ………!」
もう……あたしまだ、行く
なんて言ってないのに。
だけど、課長はもう出口の
辺りまで歩いて行っちゃってる。
(もう……一体どーゆー
つもりなのよ!)
あたしは渋々、課長の後を
追いかけた。
_二人とも廊下に出てから、
課長は初めて振り返って
あたしがついてきてるのを
確認して。
同じ階にある休憩室に
着くと、自販機でホット
コーヒーを2つ買った。
時間が時間だし、休憩室は
あたし達以外誰もいない。
課長はいくつかある
テーブルの一番手近な
所に座って、
「まぁ、お前も座れ」
そう言って、勝手に自分の
向かいの席にあたしの分の
コーヒーを置く。
_あたしは無言でその席に
座り、コーヒーから立ち
のぼる湯気を見つめた。
「――そんな顔するなって。
飲めよ。
これはホントに、残業の
お詫びだから」
「…………」
『これは』って、なによ。
じゃあ、ここまで連れて
来た理由は、別にあるって
ゆーの……?
「研修についての話なら、
あそこで続ければよかった
んじゃないですか……?」
_――ようやく。
あたしはそれだけを、低い
くぐもった声で言った。
課長はその質問には答え
なくて、短い沈黙が流れる。
やがて静かに長い息を
つきながら、課長は
ポソリと呟くように言った。
「二人きりになっても――
もう、敬語でしか話して
くれないんだな――…」
「……………!!」
_あたしは膝の上に置いた
手にギュッと力を込めた。
言葉は出ない。
なんて言っていいのか
わかんない。
――敬語でしか話さない、
って……。
……当たり前じゃん。
だってあたし達は、
“課長”と“部下”なんだよ?
こうやって接する以外、
どうしろってゆーのよ……。
――そんなあたしの心の
声が、課長に届いたのか
どうかはわかんない。
_課長はコーヒーを一口
飲むと、そのカップを
テーブルに戻して、
「別れた男と一緒に働く
のは、そんなに苦痛か……?」
って。
あたしには絶対言って
欲しくなかった、禁断の
コトバを、投げかけた。
「――やめて……下さい。
そーゆー言い方……」
それしか、言えない。
_……ひどいよ、課長。
あたし達は、ただの
“上司”と“部下”だって。
そういう関係に戻ったん
だって、必死で言い聞かせ
ながら、あたしは毎日
仕事してるのに。
――もちろん、わかってる。
まだ完全に割り切って
接することができなくて、
自分の態度が不自然に
なってることは。
だけど、それでも――
そんなセリフは言わないで
ほしかった。
_“昔のオトコ”としての
表情を、二度とあたしの
前ではしてほしく
なかったのに――…。
……ギュッと手を握り
しめたまま、俯いてる
だけのあたしに。
課長はためらいつつも、
次の言葉を発した。
「だけど……心配だろ。
いつもオレを避けるように
してるし、態度だって
ぎこちないし……」
――当たり前でしょ。
別れてまだ数ヶ月だよ?
そんなに簡単に、何事も
なかったように話なんて
できるわけないじゃない。
_「ほっとけないよ。
莉央は、オレの大事な
部下でもあるんだ。
オレ、莉央には本当に
感謝してて――…」
「莉央って呼ばないで!」
我慢できなくて、反射的に
そう叫んでた。
「その呼び方は、
もうダメだよ……!」
課長が下の名前を呼び
捨てにするのは、二人で
会ってるときだけだった。
“課長”としての“宇佐美
潤”は、あたしのこと
『松嶋』としか呼ばないん
だから……。
_「―――悪い」
重苦しい空気の中、課長は
低くそう謝った。
動揺の現れか、テーブルの
上で左手の人差し指を
トントンとやり出す。
手持ちぶさたになったり
冷静さが欠けてくると
こうして指を動かすのは、
昔からの癖だ。
だけど――ヤだな、なんて皮肉。
音に反応してついそっちを
見ちゃったあたしの目に
飛び込んできたのは、
左手の薬指で鈍い光を
放つリング。
_もう何年もそこにあって、
しっかりとなじんでる。
――彼の、結婚指輪。
(もう、ホントにダメだ、
こんなの。
本当にあたし達は、ただの
仕事仲間に戻らなきゃ――…!)
「――もう、心配なんて
してくれなくてけっこうです。
あたしは、大丈夫ですから」
声が震えそうになるのを
必死で抑えてそう言うと、
あたしは立ち上がった。
_そのまま脇目もふらず
出口に歩き出した背中に、
『あっ、待てよっ!』って
声がかかる。
だけどもう、あたしは
振り返りもしない。
一目散にオフィスに戻ると
荷物をつかんで、飛び出す
ように会社を出た。
外に出ると、1月の切り
つけるように冷たい風が
肌を突き刺す。
急いでて閉めてなかった
コートの前を閉めて、
ストールを巻いて。
_何事もなかったように
颯爽と歩こうって、必死に
胸を張った。
――宇佐美課長とは、
最初から不倫だった。
20歳で入社したときから
ずっとあたしの上司だった
彼と、23歳の頃に
つき合い出した。
奥さんがいるのは知ってる。
でも、ずっと憧れてて
尊敬してて――ひそかに、
好きだった。
そんな彼とたまたま二人で
ひとつの仕事を手がける
ことがあって、そのとき
二人で飲みに行ったりして
グッと親密になって。
_彼はその頃、奥さんとの
仲があんまりうまく
いってなかった。
でも、険悪だってほどじゃない。
どこの夫婦にでもある
倦怠期ってゆーかすれ違い
ってゆーか、その程度。
だけど彼は、そんな少し
疲れる家庭生活の息抜き
を、あたしに求めてくれたんだ。
あたしは、それでもよかった。
不倫でも愛人でも二番目
でも、彼に愛してもらえる
ことの方が嬉しかった
から、受け入れた。
_そうして、人には言えない
つき合いを2年間続けて
きたけれど――…。
別れたのは3ヶ月前。
……あたしの方から切り
出して、二人で話し合いも
して、最終的にちゃんと
合意のうえで別れた。
理由は、彼の奥さんに
赤ちゃんができたから。
それを初めて聞いたとき、
奥さんへの嫉妬をまず
抱いた自分がいた。
_奥さんと冷め切ったわけ
じゃないことも、彼に
家庭を捨てる気がない
ことも、承知のうえだった
はずなのに。
なのに、どうしても
悔しくて、ショックで。
嫉妬に狂って、新しい命の
誕生を喜べない。
そんな自分が、サイテー
だって思った。
それに、これを機に夫婦は
関係を修復できるかもしれない。
ううん、きっとそのための
チャンスなんだろう。
_だとしたら、あたし達は
もう終わりにしなきゃ、って。
そう思ったから、別れた。
もう二度と、彼を『潤』
とは呼ばない。そう誓って。
あたしはただの部下に戻る
って、誓ったのに――…。
不倫の代償。
道ならぬ恋におぼれてた
ことに、罪がないだなんて
思ってない。
_わかってる。
あたしのしてたことは、
ヒドいことだ。
道徳に反する、サイテーな
行為だ。
わかってる――
けど――……。
その代償を、平気な顔で
受け止められるほど。
あたしの心は、
強くも、凍ってしまっても
なくて。
ただ、恋を失った
ショックでもろくなった
心が、切ない悲鳴を
あげてた……。
☆☆☆☆☆
_


