夜の電車の

一番端の座席に寄り掛かり

僕は脱け殻のように

虚空を眺めていた

耳に音楽が流れていた

僕の耳の中だけで

ブラームスのバイオリン・ソナタ

第3番

イヤホンから繰り返し繰り返し

短調のバイオリンとピアノが

空ろな心を埋めるように

流れ続けていた






帰りの車の中で

彼は泣き止まない僕に

音楽を聞くか?と聞いた 

僕は言葉にもならずうなづいた

彼はスーツのポケットから

携帯用のデジタルプレーヤーを出し

僕に渡した

君にあげるよ

私の好きな曲しか入っていないが

彼は僕の手の平にそれを置いた

君の好きに使えばいい…

僕はそれを握りしめた

車はあっけなく去っていった

最後に彼は僕を助手席から

押し出した

押し出した彼は僕を見なかった

ただ僕の腕を掴んだ手が震えていた

僕は道に茫然とたたずみ

彼の手がドアを閉めるのを見ていた

別れの言葉を

二人とも一言も言えなかった

普通の恋なら今日のこの日が

始まりになるはず

だけど今日僕らは苦しみと優しさを

両方終えた







車が走り去り

僕は彼のくれたプレーヤーの

イヤホンを泣きながら耳に入れた

再生ボタンを押すと

悲しくて美しく激しいメロディが

僕の両方の耳から身体の中に

流れ込んできた

夜の道で涙が止まらぬまま

僕は小さなプレーヤーを握りしめた

路地の電信柱に背中を預け

しばらく僕は歩くことも出来ず

彼の好きなその曲に

彼を重ねていた

バイオリンとピアノが踊る

互いを導き重なりあい

時に責め時に戦い

切なく抱き合い

刹那の時を疾走していく

まるで今日の彼と僕のように 

なんて痛み

なんて悲しみ

(こんな気持ちで人を抱いたことが

ない…)

不意に彼の言葉が頭をよぎり

僕はもう立っていることも出来ず

その場にうずくまった