「久坂殿」

来島又兵衛と別れた久坂は、またしても後ろからかけられた声に足を止めざるをえなかった。

「今日は騒がしいな。一体何だというんだ?」

「も…申し訳ありません、お伝えしたいことがございまして」

心当たりのない言われように、声をかけた青年は申し訳なさそうに頭を下げる。

「伝えたいこと?」

自分より十ほど若い青年の礼儀正しい姿に、罪悪感を感じつつ、久坂は彼の用件を聞くことにした。

「実は先日、桂殿が天龍寺にお見えになったのですが、こちらも忙しかった故、お帰り頂いたのです。来たことを伝えるようにとのお言付けを承りまして」

「桂が!?」

「は…はい。なにやら話がしたいと言っておりました」

久坂の険しい顔に押されるように一歩下がる青年。
久坂は逃げ腰の青年に詰め寄っていく。


「俺の前でその名を出すな。不愉快だ」

太く鋭い刺を持った久坂の言葉は、葉音一つしない竹藪の中に消えた。


同じ学舎で同じ志を持ったかつての友。だが、時が流れるに連れて各々の志の形は少しずつ変わっていった。

真っ向から力で日本を変えようとする久坂。

それを否定するように争いを嫌う桂。

二人の溝は果てしなく深いものになっていった。

そして、桂と久坂を決別させたのは六月に起きた池田屋事件での吉田稔麿の死だった。

「あんな裏切り者と話すことなどない!」

長州で池田屋の出来事を知った久坂は、吉田の訃報と共に、“桂は真っ先に逃げた”という噂も耳にしていた。それを鵜呑みにした久坂にとって桂は最早、敵同然である。


「もうよい。下がれ」


「は…失礼、しました」

久坂の禁忌に運悪く触れてしまった若い志士は、それ以上何も言わず足早に去っていった。


「破壊なくして新しいものは創れぬ。間違っているのはあいつの方だ…」

再び一人になった久坂がぽつりと呟いた言葉は、彼自身の耳以外、誰の耳にも入れられることなく消えていった。