幕末異聞―弐―


「…泣いて…いるのか?」

「泣いてまへん!!」


「いや…でも…」

「泣いてまへん言うてるん!!」

ゴシゴシと粗い着物で乱暴に両目を擦る幾松。それでも彼女からは透明の水が流れ続ける。

「そう…そういう問題やない…。うちは…あんたが会いに来てくれはるから頑張れた…。うちは…」

引付けを起こしてうまく呼吸ができない中、か細い声で必死に言葉を繋げる。

「幾松、すまなかった。ありがとう」

桂は幾松の細い体を自分に引き寄せ、優しく、まるで子供をあやす様に抱きしめた。幾松も黙って体を預ける。

「帰ってきたら、また君の三味線を聞かせてくれるかい?」


「…うちの三味線は高いで?」

「はは!厳しいなぁ」

もう二度と聴けないかもしれない声に幾松は全神経を集中させる。別れの時に後悔しないために、幾松は桂の全てを五感で感じた。

「うちな…新しい曲弾けるようになったんやえ?」

幾松は涙で歪む視界を何度も何度も目を擦って修正する。桂の姿を一秒でも長く見るために、幾松の目は周りの皮膚が赤くなるまで擦られていた。

「そうか!それはよかった!!」

「でも今は弾きまへん」

「どうしてだ?」

幾松は、すっぽりと桂の腕の中に納まっていた体を自ら離す。そして、涙目ではあるが、いつもの芸妓としての幾松に戻った。

「あんたに一番初めに聴かせたる。それまでは誰にも聴かせまへん。ありがたく思うよし!」

本日最高の笑顔と男らしさで桂を見据える幾松。


「だから、早く帰ってきておくれやす。うちが弾き方忘れる前に」

今度はふわりと女性特有の柔らかい笑顔で幾松は桂を送り出す。
桂はその言葉の全てを胸にしまい、大きく頷いて幾松から一歩離れた。

「行って来る」

「行ってらっしゃい」

幾松は、長くなった影を引きずりながら遠ざかっていく桂の姿を、いつまでも見送っていた。