私はこの世に生を受けてから今までに経験したことの無い虚脱感に襲われていた。


夢を見ているのだろうか?

本気でそう思ったのは今が初めてだ。


昨日までは何事も無かった。

昨日まではいつも通り、入り口で笑って出迎えてくれていた。

昨日までは目を輝かせて自分の描く理想の未来を語っていた。




――なのに今日はどうだ?




いつもより店が繁盛しているではないか。店の外まで人が溢れ返っている。

だが、お馴染みの小豆色の暖簾は出ていない。
店の前の人集りもよく見ると、建物の正面を囲むようにして円を描いているだけである。近くにいた飛脚らしき男の顔を見ると、眉を顰めて気の毒そうに店の入り口を見ていた。
本能で、この表情は良いものを見ているのではないと解る。

だが見ずにはいられない。

見なくてはならない。

見なくては…。



「…何故だ。何故……」



私の心臓は体全体が跳ね上がるほど強く鼓動した。

目の前には次々と店から出てくる男たちの姿が映った。しかし、その男たちは客ではない。


「…壬生狼うぅ……ッ」


口内に鉄の味が充満する。
下唇が突然、熱を持ち始めた。無意識の内に唇を噛み締めていたようだ。だが痛みなど感じない。

視覚から入ってくる“浅葱色”という色彩を見た瞬間、痛覚は麻痺していたのだ。

最も忌むべき色を纏った男たち。

あろう事かその連中が暖簾の掛かっていない『枡屋』から大量に品物を運び出している。運び出される品の一つ一つに見覚えがあった。
火薬、鉄砲、槍、弾…。

それらは全て喜右衛門が、先生が、我々が語る理想の世界を造るために必要なものだった。
なのに今は反勢力である新撰組の手に渡っている。


「…先生に…吉田先生に知らせなくては!」


私は走っている最中に草履が脱げた事に気づかなかった。そんな事どうでも良かった。一刻も早く先生に報告するために夢中で走った。

私の足は、信じられない速さで七条河原町の長屋を目指していた。