後ろから男が「返せっつってんだろ!」と大声を張り上げながら追ってくる。
 歩いている時はともかく走っているエナに追いつくのは至難の業。
 だが、普通はついてくることも許さぬそのスピードでも男との距離は開かなかった。むしろ徐々に縮まっている。それでもなんとか追いつかれる前に階段を上りきり、甲板に繋がる扉から身を躍らせるように外に出た。
 「……!」
 エナの足がぴたりと止まる。
 「おわっ!」
 程なくして追いついてきた男が急に止まったエナに慌てたような声を上げた。
 「おいコラ、テメェ剣を……! ……どうした……?」
 エナの様子がおかしいと気付いたのか、後半になって窺うような声音に変わる。
 「ね、名前は?」
 エナの小声での問いに男は後ろで鼻を鳴らす。
 「へっ! テメェに名乗る名なんてねェよ」
 「じゃあ単純バカって呼ぶけど?」
 答えないならそれでもいい、と即答で呼び名を決めたエナに男は思わず声を荒げる。
 「……ゼルだ!」
 やはり単純バカと呼んだ方が良いのでは、と思える程に馬鹿正直に答えた男にエナは口元だけで笑みを佩いた。
 「ね、ゼル……あれ、誰だと思う?」
 エナは視線を固定したまま、顎でしゃくる。
 闇夜の中、黒く長い髪が風に散る。
 鍛え抜かれた半裸の上半身。醜いほどの傷痕が薄い月明かりの中で晒される。
 切れ長の吊り目におさまる黒曜石の双眸は感情が読み取れぬほどに昏く凝り、深遠の闇を思わせる。
 「……漆黒の死神……」
 ゼルが背後で呟いた。
 大きな鎌の柄を肩に置いてこちらをじっと凝視しているその男は、紛れもなくこの海賊団の頭目、漆黒の死神だった。
 漆黒の死神が、ゆっくりと口を開く。
 「我が船だと知っての狼藉か……?」
 低く響く声は冷たく、其処には一切の感情が含まれていない。
 聞くだけで恐怖すら覚えそうな淡々とした声音。
 だがエナは怯えたりはしなかった。本当の恐怖はこんなところには無いと知っているからこそ、彼女は豪胆にも言い返す。
 「泥棒が、頓着する? そんなことに」
 死神はそれには答えなかった。否、エナを見てすら居なかった。
 死神が見ているのはエナの後ろ、義手の男ゼル。凍えそうな視線を受け、ゼルは一歩踏み出してエナの横に並んだ。この男もまた豪気な精神の持ち主だ。