∞
「……!」
桃を見て、一瞬脅えた目をしたのは、クージェだ。
彼にとって、夕日との旅はすっかりトラウマになっているのか、桃の顔を見ただけでそれが思い出されてしまうようだ。
「ごきげんよう」
にっこりと挨拶をすると、冷や汗をかきながらも向こうも丁寧に迎え入れてくれた。
そんな微妙な空気も、クージェが次に言った言葉で全てが吹き飛ぶ。
昨日から、イエンタラスー夫人が床から起きられなくなったという。
「今朝、テイタッドレック卿のところへ早馬を出したところだ」
慌てて枕もとへ駆けつけると、力のない静かな笑みで桃の到来を喜んでくれた。
横たわっている彼女は、とてもとても小さく見える。
「ウメは元気にしているかしら?」
この世界で、母をとても愛してくれた人。
その人の手をぎゅっと握って、桃は笑顔で「はい、おかげさまで」と答えた。
老いが、夫人を連れ去ろうとしている。
涼しい中季地帯の風が、少しずつ彼女を向こう側へ引き離していくのだ。
眠ったり、起きたり。
そんな夢と現を行き来する夫人の側に、桃は座っていた。
「こういう時は、何て言うのだったかしらね……ウメの国の言葉で」
ふと起きた彼女は、何かを思い出したように呟く。
「こういう時とは?」
桃がよく分からずに首をかしげると、ふふと笑みをこぼした。
「大事な、お別れの言葉があるでしょう?」
瞬間。
ぐっと。
喉にせり上がるものを、桃は飲み下した。
心の中で、母が微笑んでいる。
その笑みを、桃は己に宿そうとした。
この瞬間だけ。
彼女は、夫人のために母になろうと思ったのだ。
「『さようなら』ですわ、イエンタラスー夫人」
唇よ、震えるな。
「ああ、そうそう……」
手を握る。
震えているのは、老いた夫人の手だ。
「サヨウナラね……ウメ」
「さようならです、イエンタラスー夫人」
翌朝──夫人は、目を開けなかった。
「……!」
桃を見て、一瞬脅えた目をしたのは、クージェだ。
彼にとって、夕日との旅はすっかりトラウマになっているのか、桃の顔を見ただけでそれが思い出されてしまうようだ。
「ごきげんよう」
にっこりと挨拶をすると、冷や汗をかきながらも向こうも丁寧に迎え入れてくれた。
そんな微妙な空気も、クージェが次に言った言葉で全てが吹き飛ぶ。
昨日から、イエンタラスー夫人が床から起きられなくなったという。
「今朝、テイタッドレック卿のところへ早馬を出したところだ」
慌てて枕もとへ駆けつけると、力のない静かな笑みで桃の到来を喜んでくれた。
横たわっている彼女は、とてもとても小さく見える。
「ウメは元気にしているかしら?」
この世界で、母をとても愛してくれた人。
その人の手をぎゅっと握って、桃は笑顔で「はい、おかげさまで」と答えた。
老いが、夫人を連れ去ろうとしている。
涼しい中季地帯の風が、少しずつ彼女を向こう側へ引き離していくのだ。
眠ったり、起きたり。
そんな夢と現を行き来する夫人の側に、桃は座っていた。
「こういう時は、何て言うのだったかしらね……ウメの国の言葉で」
ふと起きた彼女は、何かを思い出したように呟く。
「こういう時とは?」
桃がよく分からずに首をかしげると、ふふと笑みをこぼした。
「大事な、お別れの言葉があるでしょう?」
瞬間。
ぐっと。
喉にせり上がるものを、桃は飲み下した。
心の中で、母が微笑んでいる。
その笑みを、桃は己に宿そうとした。
この瞬間だけ。
彼女は、夫人のために母になろうと思ったのだ。
「『さようなら』ですわ、イエンタラスー夫人」
唇よ、震えるな。
「ああ、そうそう……」
手を握る。
震えているのは、老いた夫人の手だ。
「サヨウナラね……ウメ」
「さようならです、イエンタラスー夫人」
翌朝──夫人は、目を開けなかった。


