アリスズc


 夜。

 窓辺に気配がした。

 眠っていた桃は、ぱちりと目を覚まし身を起こす。

 悪意のない静かな気で──ただ素直に、誰だろうと思ったのだ。

 バルコニーの窓に近づくと、硝子の向こうに白い髪が見えた。

 夜に浮かび上がる、ほの白さ。

「トーおじさま……」

 伯父の屋敷の二階だ。

 ここに、何の障害もなく登って来られるのは、彼ら父娘くらいしかいないだろう。

「旅に出ると聞いた」

 桃に会いに来てくれたのだと、その言葉で伝わってくる。

「うん……ちょっと、とうさまのところまで行ってくるの」

 窓を開け、彼と向かい合う。

 トーを前にすると、いつも自分が小さな娘であるような錯覚を覚える。

 大きくて温かい、夜の鳥。

 その翼に、どれほど自分は温められてきただろう。

「今夜は、この窓辺で歌うことを許してくれるか?」

 何故、今更そんな許しが必要なのか。

 トーは、どこででも好きな歌を歌ってきたというのに。

「トーおじさまの歌、大好きよ」

 笑いかけると、彼もまた微笑んでくれた。

 今度は、トーの手で窓が閉められる。

 そうしなければ、ならないように。

 どこか、儀式的な動作だった。

 視線だけで、桃にベッドに戻るように伝えられ、後ろ髪をひかれながら掛布の中にもぐりこむ。

 どうして戻れと言われたのか、後で分かった。

 トーは。

 歌を歌った。

 それは、恋の歌だった。

 これまで、彼が一度も歌ったことのない、彼自身のための歌。

 ひとつ歌い終わって──トーは去って行った。