アリスズc


 何も、ない。

 リリューは、長いことそこに立ちつくしていた。

 道場だ。

 彼は、夕方前には宮殿を出ることが出来たが、まっすぐ家には帰らなかった。

 どうしても、見たいものがあって。

 それが、この道場。

 リリューの子どもの頃から、そこにあってしかるべき、存在感の大きな建物だった。

 重厚で清廉で明るかった。

 馬鹿みたいに突っ立って、そこにあった道場を、彼は思い出そうとした。

 自分の記憶、母との記憶、伯母や従妹との記憶。

 それらが、本当に多くしみついているその建物は、もうない。

「リリュー兄さん、おかえりなさい!」

 門下生の少年が、木剣を肩にかけてくる。

 今日の凱旋を見たと、彼は興奮ぎみに彼に訴えた。

 少し遅れて、仕事が終わったのかウーゾが来る。

 やはり彼も、木剣を抱えていた。

 リリューが遠くをみやると、ぽつぽつと畑の間の道を、人影がこちらへと向かってくる。

 夕方の、稽古の時間であるかのように。

 いや。

 まさに、稽古の時間だった。

「リリュー兄さん、久しぶりに稽古をお願いします!」

 少年には、何の怪訝も戸惑いもない。

 何もないそこで、木剣を当たり前のように構えるのだ。

 みな、それぞれに。

 いつもと同じ稽古の時のように。

 素振りをしたり、打ち合いを始めたり。

 ああ。

 建物は、目には見えないけれども、何も変わってなどいない。

 ここは、道場なのだ。

 何も消えていない、薄れてなどいない。

 母は、心が強くまっすぐになることを、最初に教えていたではないか。

 その双葉が、茎となり、幹となり、広がったのだ。

「分かった、稽古をしよう」

 長旅の疲れなど、もはやリリューにはない。

 久しぶりの道場での稽古で、彼は存分に汗を流したのだった。