アリスズc


「エンチェルクイーヌルトです…」

 桃は、まだ身を引いたまま名乗った。

 心の中で、エンチェルクに詫びながら。

 桃の名前は、余りに短すぎて。

 この男に、余計な質問を与える材料になりかねなかったのだ。

 勿論、桃は自分の名に何ら恥じるところはない。

 しかし、興味を持たれたくない相手を、出来るだけ早く引きはがすためには、嘘くらいつける。

「了解、エンチェル…でいいかな? 綺麗な都言葉だな」

 彼女がどれほど警戒していても、カラディはまったく頓着しない。

 いや、わざと頓着していないのだろう。

 警戒を警戒として受け取ったら、話がそこで終わってしまうからだ。

 まだ、桃の情報を必要としているのか。

 ここまでこの男に与えた情報は、嘘の名前と、親戚のところへ行くということ。

 そして、都言葉。

 少しずつ桃という人間が、この男の中で多少の嘘はあるものの構築されていく。
 
「あの…本当に一人で結構ですから」

 これ以上、情報を持っていかれるのは不気味に感じて、桃は本当に関係を断とうと思った。

 そんな彼女の言葉など、聞いちゃいないカラディは、ぽんと手を打った。

「あっ、そうか…誰かに似てると思ったら」

 まったくもう。

 しつこくて困っている最中。

 彼は。

 こう。

 言った。

「テイタッドレック家の人に似ているのか」

 心臓が、鷲掴みにされそうな瞬間を、彼女は全身で踏みとどまった。

 そして、桃は意味が分からないと首を傾げてみせたのだ。

 一世一代の──大芝居だった。