剣と日輪

 そして二年後の昭和四十七年四月十六日。仕事部屋である逗子マリーナ四一七号室で、川端はガス自殺を遂げた。ガス管を握り締めた川端の死に顔は誠に純良であった、という。

 上田牧子は勤務先に同僚が持ち込んだ号外によって、必勝の自決を知らされた。中曽根康弘防衛長官、作家の石原慎太郎その他著名人の反響は何れも楯の会が引起した事件を、非とするものばかりであった。牧子は必勝が死に向って猛進していると、感付いていた。敢て諫言しなかったのは、それを是としたからである。一生を捧げても悔いのないものが、必勝と公威には有ったのだ。それだけで十分ではないか。
(到頭やってしまったのね)
 牧子は社屋を出、天光(てんこう)を拝した。
(まさかっちゃんは、日輪の申し子だった)
 眩(まばゆ)い陽(よう)日(じつ)が、必勝そのもののようだ。
(日出づる国、神州にまさかっちゃんは旅立ったんだわ)
 それは今の日本ではない。敗戦で砕け散った神の国に、必勝は公威と共に飛翔したのだろう。
 様々な情報が錯綜(さくそう)する中その思いのみが、牧子には確然と呑み込める唯一の真義であった。