「雪国」
等の佳作で名声を博していた鎌倉在住の文豪川端康成四十七歳に、蛮勇を奮って自著を贈呈したのである。
川端からの礼状は三月八日付けで、公威の許に郵送された。それは尊大振らない人柄の滲み出たもので、公威は二十一歳の若造への川端の細心の気配りに、尊崇の念を禁じえなくなってしまった。殊に公威が恐縮したのは、
「文芸文化で一部拝見して御作風にかねて興味を寄せておりましたのでまとめての拝読を楽しみに致します」
(川端康成・三島由紀夫著新潮社刊川端康成・三島由紀夫往復書簡より)
という箇所である。
(文芸文化を読んでくれていたんだ)
公威は三月十六日付で、
「先日は野田氏を通じ突然拙著を差上げました無躾(ぶしつけ)をお咎(とが)めなきのみか、御丁寧な御手紙たまわり、厚く御礼申上げます」
(川端康成・三島由紀夫往復書簡より)
と前書した返書を送致した。これを始初として、公威と川端の師友関係は、二十五年に渡り、深化していくのである。
川端は公威の、
「花ざかりの森」
を激賞した。野田は川端の書評に信従し、
「エスガイの狩」
「サーカス」
を、
「文芸」
等の佳作で名声を博していた鎌倉在住の文豪川端康成四十七歳に、蛮勇を奮って自著を贈呈したのである。
川端からの礼状は三月八日付けで、公威の許に郵送された。それは尊大振らない人柄の滲み出たもので、公威は二十一歳の若造への川端の細心の気配りに、尊崇の念を禁じえなくなってしまった。殊に公威が恐縮したのは、
「文芸文化で一部拝見して御作風にかねて興味を寄せておりましたのでまとめての拝読を楽しみに致します」
(川端康成・三島由紀夫著新潮社刊川端康成・三島由紀夫往復書簡より)
という箇所である。
(文芸文化を読んでくれていたんだ)
公威は三月十六日付で、
「先日は野田氏を通じ突然拙著を差上げました無躾(ぶしつけ)をお咎(とが)めなきのみか、御丁寧な御手紙たまわり、厚く御礼申上げます」
(川端康成・三島由紀夫往復書簡より)
と前書した返書を送致した。これを始初として、公威と川端の師友関係は、二十五年に渡り、深化していくのである。
川端は公威の、
「花ざかりの森」
を激賞した。野田は川端の書評に信従し、
「エスガイの狩」
「サーカス」
を、
「文芸」


