(中略)このごろ外人に会うたびに、日本はどうなって行くのだ?日本はなくなってしまうではないかと心配そうに訊かれます。日本人から同じことを訊かれたことはたえてありません。どの社会分野にも、責任感の旺盛な日本人はなくなり、デレっとし、ダラっとしています。(中略)文壇に一人も友人がなくなり、今では信ずべき友は伊沢氏一人になりました。(中略)春まで御上京にならぬ由、洵に残念に存じます。お話したいことが山ほどある昨今であります」
(三島由紀夫著新潮社刊師・清水文雄への手紙より)
公威が書中、
「たった一人の友人」
と呼んだ、
「伊沢氏」
とは愛国学園短期大学教授、拓殖大学講師伊沢甲子麿のことだ。
文化人と称する共産主義・無政府主義者達が公威を、
「右翼」
と敬遠し、次々と離れていった中で、公威の死後も変わらぬ友情を示した誠実の人である。
清水は終戦後広島へ帰郷し、広島大学教授を経て、比治山女子短期大学教授となっていた。六十七歳であったが、彼はその後も長生きし、平成十年に九十四歳で没している。公威にとって清水は理想の父親、唯一の恩師であった。できれば今一度会いたかったが、それは叶わぬことでしかなかったのである。公威には渾身の義挙が、迫切(はくせつ)していたのだ。
清水は便箋四枚に渡る公威の、
「惜別の文」
を読破し、言い知れぬ不吉さを読み取っていた。それまでは葉書が主だったのだが、今年に入ってから俄に封書になり、四枚という多量に及んでいる。
(三島由紀夫著新潮社刊師・清水文雄への手紙より)
公威が書中、
「たった一人の友人」
と呼んだ、
「伊沢氏」
とは愛国学園短期大学教授、拓殖大学講師伊沢甲子麿のことだ。
文化人と称する共産主義・無政府主義者達が公威を、
「右翼」
と敬遠し、次々と離れていった中で、公威の死後も変わらぬ友情を示した誠実の人である。
清水は終戦後広島へ帰郷し、広島大学教授を経て、比治山女子短期大学教授となっていた。六十七歳であったが、彼はその後も長生きし、平成十年に九十四歳で没している。公威にとって清水は理想の父親、唯一の恩師であった。できれば今一度会いたかったが、それは叶わぬことでしかなかったのである。公威には渾身の義挙が、迫切(はくせつ)していたのだ。
清水は便箋四枚に渡る公威の、
「惜別の文」
を読破し、言い知れぬ不吉さを読み取っていた。それまでは葉書が主だったのだが、今年に入ってから俄に封書になり、四枚という多量に及んでいる。


