剣と日輪

「そうか」
「それもナイアガラみたいな瀑布じゃなく、那智の滝のようになりたいんだ。分かるか?」
「何となくな」
「分かるか。じゃあ飲め」
「そうだな。飲もう」
 必勝は正体不明になるまで酔いどれ、小川に小林荘二階八号室に担ぎこまれるようにして、帰室したのである。
 公威は翌十三日、お茶の水女子大学付属小学校二年の威一郎の授業参観日に顔を出し、授業修了後、勝部真校長に談言を請うた。校長は時間を割いてくれ、校長室で勝部、瑤子、公威の三人は三時間余も談議に耽ったのである。
 公威としては、
「わが長子」
 威一郎への何年分もの、
「父親参観」
 なのだ。
 勝部は公威を玄関迄見送った後、
「あんな熱心な父親は、初めて見た」
 と両肩を叩いたのだった。

「三島由紀夫展」
 が閉幕した十一月十七日。公威は学習院時代の恩師で、筆名の名付親の一人である清水文雄宛に、書文を綴った。 
「豊饒の海は終りつつありますが、これが終ったらという言葉を、家族にも出版社にも、禁句にさせています。小生にとっては、これが終ることが世界の終りに他ならないからです。(中略)昨今の政治状勢は、小生がもし二十五歳であって、政治的関心があったら、気が狂うだろう、と思われます。偽善、欺瞞の甚だしきもの。そしてこの見かけの平和の裡に、癌(がん)症状は着々進行し、失ったら二度と取り返しのつかぬ日本は無視され軽んぜられ、蹂躙(じゅうりん)され、一日一日影が薄くなってゆきます。