藤原は後年三井系列の王子製紙社長となり、定太郎が大正三年六月に樺太庁長官を辞任した直後の七月に大泊に工場が落成した。八月に第一次世界大戦が開幕し、欧州からパルプの輸入ができなくなった。王子製紙は国内需要を一手に引き受け、二年後には豊原にもパルプ工場が造成されて、大企業へと発展した。藤原は昭和五年大恩に報いんと、豊原工場に隣接する豊原神社社頭に定太郎の銅像を建立している。
 白髪の二人の翁は親し気で、公威は藤原から、
「公威君」
 と可愛がられ頭を撫でられたものだ。
(あの爺様なら何とかしてくれよう)
 公威は母倭文重に藤原の住所を聞き出し、現今の出版事情及び、
「花ざかりの森」
 発刊の必須条件たる用紙保定の支援を依願した書簡を送付した。
 数日後の二月上旬に王子製紙秘書課長の岡崎和一と名乗る人物より、公威に電話がかかった。岡崎は、
「会長の言付けにより、君の援助をしたい」
 と申し出た。そして平岡家に来訪し、
「用紙の確保は必ず実現する」
 と公威に確答したのである。公威が七丈書院に、
「王子製紙が用紙の確保を確約した」
 と告げると、事は一気に加速していき、昭和十九年四月二十四日、公威の記念すべきデビュー作は、日本出版会の出版許可を得たのであった。
 公威は形見の積もりである処女作品集の刊本化実現に躍動し、書面で序文を伊東に願いあげたが、意外にも伊東は拒絶した。伊東は知人蓮田に懇願され断り切れずに、
「花ざかりの森」
 を富士に奨励(しょうれい)したのである。公威は、
「尊崇(そんすう)する伊東先生に文才が認められた」
 と認承(にんしょう)していたのであるが、実際はそうではなかった。