十月二十五日、四十歳の蓮田に二回目の召集令状が届き、十二月には肝心の富士が徴用され、工場勤務となった。
「花ざかりの森」
 の製本化は停頓するかに思われた。
 だが公威は執着心を捨てなかった。誰も頼りにならないからには、伝手を手繰り寄せるより外は無い。目下出版物の統制が行われており、内務省及び日本出版会の許認無くしては、出版物の版行はできなかった。各出版社は日本出版会より用紙を割当てられ、図書刊行の際には、企画書及び原稿を事前に提出して出版の可否を審査され、合格せねばならなかった。こうした出版統制の強化が計られた結果、割当て用紙が一定の基準量を満たせない中小の出版社は存続不可能となり、大きな出版社に併合されるか、倒産する以外に道はなくなっていた。
 七丈書院も、悲運に直面していた群小の一つだった。七丈書院はこの年筑摩書房に吸収合併される運命にあるが、一月の時点では統合話は持ち上がっていたものの、何とか自活できないものかと探求していたのである。公威はそうした経緯を富士からの書文で諒解し、
(要するに、用紙の確保さえできれば、出版できるのだな)
 と悟了した。
 公威は祖父定太郎が、王子製紙会長で国務相を務める藤原銀次郎六十六歳と懇意であった過去を記憶していた。定太郎が樺太庁長官を務めていた明治末からの濃密な付合いで、藤原は幾度か平岡家に足を運んで、定太郎と昔話に花を咲かせていたものである。
 定太郎は樺太に産業を根付かせんと欲し明治四十二、三年頃、東京で当時三井の木材部長であった藤原と会合を持ち、
「樺太にどうしても産業を確立したい。幸い樺太は木材が豊富に有り、これを只で差し上げる。三井の手であの北端の寒地を開発し、御国に役立つ地域にして欲しい」
 と説得して樺太に本邦初のパルプ工場を誘致したのだった。結局無料の木材供出は藤原の固辞により払い下げとなったが、値段は格安だった。