十七歳の時分に創作した、
「花ざかりの森」
 の評価は高く、
「文芸文化」
 の同人で教職者の蓮田善明が牽引車(けんいんしゃ)となって、出版化計画が進展していた。
 蓮田は七丈書院関西駐在員で、
「文芸文化」
 の同人でもある富士正晴に、
「花ざかりの森」
 の出版を働きかけ、公威が景仰する大阪府立住吉中学校教諭で詩人の伊東静雄には、
「富士氏に推薦してください」
 と依頼した。
 蓮田と伊東の推奨を受け止めた富士は、
「花ざかりの森」
 の原稿を読了し、上京して公威とも談判した。八月の炎天下、公威は神田にあった七丈書院に赴いて富士と面話し、そのまま住居に招かれ、ずっと親交を保っている。