一方戦争は激化の一途を辿っていた。五月の珊瑚海海戦で、日本軍は戦闘機の過半数を失ってニューギニア島のポートモレスビー攻略を断念せざるを得なくなり、六月五日のミッドウエイ海戦では主力空母四隻を撃沈されて、西太平洋の制空権を、米軍に明渡す破目となった。ミッドウエイ海戦を機に、日米の優劣に大転換が訪れたのである。七月十一日大本営は南太平洋進攻作戦の中止を決定し、太平洋戦線において以後日本軍は守勢に回り、攻勢には二度と出なかったのだった。
 戦局の変換と時を同じくして、平岡家にも暗風が吹いた。祖父定太郎が逝ったのである。八十歳だった。平岡家中興の祖であった定太郎の大往生は、平岡家の面々に晩秋の木枯しを想起させ、冬枯の到来を悟らせた。父梓も三月に退官し、国策会社の日本瓦斯用木炭会社社長となっていた。明治の御世に播州の山村から万次郎、定太郎という農民の兄弟が四民平等の天下に勇躍し、万次郎は弁護士、代議士となって故郷に錦を飾り、定太郎は政治家となって、明治大正の地方政界に確固たる痕跡(こんせき)を留めた。
「平岡家の栄光は、最早過去のとなってしまった」
 という嘆慨(たんがい)が、晩夏の一族を覆蔵(ふくぞう)していった。
「赤絵」
 は出資者の倅東が昭和十八年十月八日に早世したので、僅か二号で廃刊となった。東は二十四歳という若さだった。公威は結核(けっかく)療養(りょうよう)中だった東とは感染が懸念(けねん)され、一度しか面会をしなかったが、頻繁(ひんぱん)に文通する仲であった。公威は訃報(ふほう)に打ちひしがれ、
「赤絵」
 は東の夭折(ようせつ)に奉げられる形で、終刊となったのである。
 第二次世界大戦は、終局(しゅうきょく)に差掛(さしかか)っていた。日独伊三国同盟の一角であるイタリアが、昭和十八年九月に降伏し、枢軸軍の敗(はい)兆(ちょう)が顕著(けんちょ)になってきたのである。ドイツは東部戦線の起死回生を賭けてスターリングラードの戦いに臨んだが潰敗(かいはい)し、戦争初期の無敵振りが夢(む)幻(げん)と化して敗退を重ね、ソ連軍に西へ追いやられていきつつある。