当時の青少年の気(き)意(い)を代弁した公威の詩、
「大詔」
 は、
「文芸文化」
 に載せられ、詩徒としても三島由紀夫という文筆名が知遇を得たのである。
 
 公威は四月に学習院高等科乙類(ドイツ語)に進学し、クラス委員と文芸委員を務めた。文学への傾斜は度合を増し、詩人として敬重(けいちょう)する伊東静雄の詩集や平安朝文学にのめり込んでいった。
 七月には、
「赤絵」
 という同人雑誌を東(あずま)文彦(本名健)、徳川義恭と創刊し、
「苧菟(おっとお)と瑪耶(まや)」
 と、
「花ざかりの森 序とその一」
 の二編更には、
「馬」
 という詩を発表した。又十八歳ながら評論にまで手を出し、
「古今の季節」
 を、
「文芸文化」
 に掲載して、
「学生作家」
「日本のラディゲ」
 の異名を欲しいままにしていた。
「三島由紀夫」
 の筆名は文壇では認知されていなかったが、アマチュアの文士界では知る人ぞ知る文名となっていった。