戯曲、
「ブリタニキュス」
 で第九回毎日演劇賞に輝いた直後の五月五日、三年足らずの秘(ひ)恋(れん)はひっそりと幕を引いたのである。

 日本大学拳闘(けんとう)部の合宿所に、毎週火曜と金曜に公威が通い始めたのは、昭和三十一年長(なが)月(つき)からだった。小島智雄監督の指南(しなん)を、仰(あお)いだのである。
 小島は公威と背丈がほぼ同等で、
「小太りの、柔和(にゅうわ)な小父(おじ)さん」
 といった第一印象であった。公威のコーチを引き受けた折(おり)開口一番、
「試合には絶対出しません。若し試合に出たいのなら、他所(よそ)でやってください」
 と言い含められた。公威は、
「作家ボクサー」
 を目指したかったので、
「何故ですか?」
 と頓着(とんちゃく)せずに反問した。
「素人が試合に出て、大怪我(けが)でもされたら、拳闘の名折れだから。ボクシングは二束(にそく)の草(わら)鞋(じ)でやれるような、生(なま)易(やさ)しいものではないんです」
 凛呼(りんこ)たる小島の物言いに公威は、
(この人の下なら、本物のボクシングをやれそうだ)
 と信望(しんぼう)し血生臭(ちなまぐさ)い、
「キングオブスポーツ」
 に足を踏み入れたのだった。
 練習は三分間を一ラウンドとし、三十秒の休息を間に挟んで、九ラウンドぶっ通しで行われる。メニューはサンドバッグ、縄跳び、シャドーボクシング、パンチングボール、スパーリング等である。小島が一対一で、指導してくれた。