「どうだかな」
 メイドが三谷に、
「母上様がお呼びになっています」
 と知らせに来た。
「来客中なのに。ちょっと行って来る」
 三谷は文句を口中(こうちゅう)呟(つぶや)きながら、腰を浮かせた。
 公威と邦子は、二人きりになった。
あの、軽井沢の陰蔚(いんい)で交わしたファーストキスが、邦子の脳裡(のうり)を掠(かす)めた。
「平岡さん」
 語尾が、何かを訴えようとしているのを感じ取り、公威は邦子を正視した。
「一つだけ、質問があるの」
「何?」
 邦子は間髪を入れず、流暢(りゅうちょう)に問訊(もんじん)した。
「どうして、私達は結婚できずに終わったのかしら」
 邦子の口吻(こうふん)は、強まった。
「あなたの手紙を読んでから、私の世界は崩壊し、何も信じられなくなったの。軽井沢の日々は幻だったのかしら、とも思ったわ」
「私を、何時嫌いになられたの?」
 公威は邦子の研(と)ぎ澄まされた眦(まなじり)に、たじろいだ。そして吾ながら狡猾(こうかつ)な応対をしてしまった。
「僕は、あの手紙の文面で、一言も別れるだの、嫌いだのとは書いていない」
 邦子は二の句が継げない、という素振りである。
「この世の中は、好きな者同士が結婚できるように、必ずしもできていない。何らかの足枷(あしかせ)が有って、そういう風になってるんだ。今の世に、本当に両思いの夫婦が、一体幾組いるだろう」