石田三成は捕縛後、反逆者の汚名を着せられた。大坂、堺、京を罪人として引廻された上で、京都六条河原にて盟友の肥後宇土領主小西行長四十六歳。伊予和気領主安国寺恵瓊(えけい)六十二歳と共に斬首された。十月一日の事である。三成と行長、恵瓊、更に近江水口城外で切腹して果てた水口領主長束(なつか)正家三十九歳の四つの首は、京都三条大橋畔で晒されたのだった。
 三成の辞世の句である。

 筑摩江や 
 蘆(あし)間に灯す篝(かがり)火と 
 ともに消えゆく我が身なりけり
 
 三成の城下町佐和山は、徹底的に破壊された。太閤の遺児豊臣秀頼八歳は二百万石の豊臣家蔵入地を家康に勝手に削減され、摂津、河内、和泉三国六十五万石の一大名に転落してしまった。
 近江彦根には上野箕輪から転封された徳川譜代の臣井伊直政四十歳が入部し、湖東の民衆は世の変転を実感したのである。
 佐和山には文禄四(一五九五)年起工の五層の天守閣を有する荘厳な佐和山城が、琵琶湖の銀色の湖水を背景によく映えていたのだが、それはもう観覧できない。
 太閤の愛弟子三成の敗死は、桶狭間の戦い以来膨張し続け、アジア大陸にまで進撃した織(しょく)豊(ほう)路線の終焉を意味している。尾張に勃興した産業主義的絶対権力が敗北し、三河を起源とする農本主義的封建権力の時代が始まったのである。時代の逆行と言えるであろう。

 与次郎は三成を見送った後、妻子と復縁した。娘婿の与吉だけは許せず勘当を言渡した。   与吉は反抗せずに家を出た。三十戸の古橋村民は与吉を忌嫌(きけん)した。与吉は姿を眩(くら)ましたのだった。
 徳川家康は三成を、
「諸悪の根源だった」
 と喧伝(けんでん)した。