辻与次郎は、近江古橋村の庄屋である。女房と子宝に恵まれ、広大な田畑を有し、幸福な生活を送っていた。慶長二(一五九七)年。邑は冷害に遭い、作物の大部分が収穫不能となってしまったのである。百姓は年貢の納品時期が近付くにつれ、連日年貢米対策を合議したが、為す術もない。村一の知恵者法華寺の善蓬という寺僧に、藁にも縋(すが)る思いで、与次郎等大百姓五人が相談を持ち掛けた。
 善蓬は有識者であるが、米を所持している訳ではない。領主石田治部少輔三成の少年期に読書き手習いを教授したが、昵(じつ)懇(こん)である訳ではない。百姓達は失望して帰宅していった。
 与次郎は元来痩身であったが、数日来の空奔走に従事したせいか、七キロも体重が落ちてしまった。深夜女房と娘が寝静まった後、与次郎は布団の中で決心していた。
(こうなったら、直訴しかない)
 近江佐和山城主石田治部少輔三成三十八歳は、
「太閤の信任の篤い民治に熱心な辣腕家だ」
 との世評である。三成は、
「大一大万大吉」
 と記された家紋を用いた。意味は、
「万民は一人の為に、一人一人が万民の為に尽力すれば、太平の世となる」
 だという。与次郎は幼少時土豪の令息だった石田佐吉(三成の幼名)と法華寺で机を並べた過去がある。佐吉は聡明で義理人情に篤く、孟子を尊敬していた。小柄な美少年で、えもいわれぬ高人格者だった。浅井家が織田家に滅ぼされ、今浜が長浜と改称されて羽柴秀吉が新領主として赴任した際、秀吉に見出され召抱えられたと聞知し、
(佐吉ならさもありなん)
 と納得したものである。あれから二十有余年。地元出身の豊臣家奉行の評判は上々で、現在三成は佐和山に帰城している。
(村の窮状を認め、佐和山へ行く。治部少輔その人に書状を渡す。どういう咎めを受けても構わぬ)
 八方塞がりとなった上は、それしか手はない。夜逃げした者や、餓死寸前の人々も居る。
(愚図愚図できぬ)
 与次郎は、
(夜明けと共に行動を起こす)
 と決意し、双眸(そうぼう)を閉じた。