江見は佐賀県出身で四十五歳であった。犯罪防止官制度の成功と、久坂の失脚により、一躍NO.2の地位を得た。今までは単なる科学者扱いしかされていなかった江見は、小柄で高校教師のような風貌(ふうぼう)に似合わぬ野心を秘めている。
 江見は、
「怒りの脱出作戦」
 に全幅の自信を漲(みなぎ)らせていた。彼が開発した犯罪防止官は感知不可能で、目視(もくし)はできるが、触れることさえできないのである。だが敵である中国、北朝鮮もこと軍事にかけては馬鹿ではない、と江見は判断している。
「愚図々々していると、敵に研究されてしまう」
 と予定通りの決行を、磨生に奏上(そうじょう)し続けた。磨生も根負けして、再び八月進攻が裁定されたのであった。
 久坂は江見の強引な主張を磨生が容認したことに、内心不愉快であった。副宰政は宰政に反対できないので、黙認するよりほかはなかった。江見は久坂にかわって、
「怒りの脱出作戦」
 本部長となり、その発言力は日に日に高騰(こうとう)するばかりであった。

 そして八月となった。
 江見作戦本部長、磨生宰政、大木国防大臣田上陸軍参謀長、津田空軍参謀長、深山海軍参謀長を中心とした戦略会議が召集された。八月七日の旧七夕の日を以て、高山と配下の犯罪防止官が北朝鮮の核施設を一斉に壊乱(かいらん)し、同日陸海空全軍を挙げてピヨンヤンを目指し進軍する軍略が確定されたのであった。
 八月二日の熱帯夜、久坂は宰政官邸を訪ねた。応接室に入室すると、
「愈愈だな」
 と久坂は厳粛(げんしゅく)に言述(げんじゅつ)した。
「ああ。やっとな」
「中国はどうでるかな」
「日米同盟がある限り、迂闊(うかつ)には手を出さない」
「ヒトラーがポーランド侵攻を決めた時、ゲーリングは中止を提言した。ヒトラーは英仏は宣戦してこないと読んで、ポーランドを攻撃した」
「我々はヒトラーのような、侵略者ではない。あの独裁国家に拉致されている同胞を、救出するのだ」