今、目の前に薄っすらと浮かぶのは何なんだろうか。



――…私は…何をしてるんだろう…。




「…う……そ………っ」

「あんた馬鹿じゃないの?誰が喜ぶんだよ、んな事して。」


カウンターの向こう側、厨房の手の届く場所に置いてあった果物ナイフは自分自身に届く事はなかった。

動いたのは伊織でもマスターでもない。

私を嫌っているはずの専務だったんだ。



「な、…で……なんで!」

「だからあんたは嫌いだ。」


ぽたり――…
生温い感触は掌や足の甲にまで感じて思わず眉を寄せてしまった。

どうしてこんな事をするんだろう…いや、どうして嫌いな私を助けてくれたのか。

今の状況で戸惑うのは私だけじゃない。伊織も、マスターですら戸惑うのが手に取るようにわかってしまう。



「嫌いならほっといてよ…っ!」

「あんたは嫌いだ…

でも嫌いなあんたを憎めない俺はもっと嫌い…」


グッと握られた果物ナイフから生温い液体が私の指先に伝って、床にパタリと丸い滲みを残す。

表情一つ変えない専務に私の方がしかめっつらをしてしまう。

抑えられた両手はビクともしないし、何よりも両手を動かしたら専務の掌は綺麗にスッパリ切れてしまうだろう。