晩飯のあと。リビングでゲームをしていたら、あいりがやってきた。勉強していて分からないことがあると、あいりは必ずオレを頼る。だから、遠慮なく話しかけやすいように、ここで待っていたのだ。

「あのね、この問題が分からないの」

案の定、差し出されたのは数学の教科書。開かれたページから察するに、明日の授業の予習をしているのだろう。オレのクラスより先の項目だが、問題ない。読めば分かる。

その事柄に精通した者が書いた文章ってのは、分かりやすいように簡潔にと心砕かれていても、何も知らない者に読ませたら逆に分かりづらい、なんてことがままある。視点や感覚に溝があるのだ。それを理解して埋めてやるのが、教科書の類を読み解くコツだ。ただ、このコツは誰にでも掴めるものじゃないらしい。少なくとも、あいりには無理だ。だから、あいりの思考パターンに寄り添って問題を解説してやる。

「……ってわけ。あとは、この例題を覚えるまで繰り返し解いておくとテスト前が楽だぞ」

「わぁ、わかりやすかった!ありがとう。かなでって、ほんとにすごいね!」

分かりきったことを、よく飽きもせず褒めてくれるものだ。

「苦しゅうない、いいってことよ」

得意げな顔を作っておどけてみせると、あいりは屈託なく笑った。野暮ったい眼鏡に隠れていて分かりづらいが、その柔らかい目元は母さんに似ている。オレほどではなくても整った顔をしているのだ……自覚はないようだが。

「そうだ。かなで、お風呂はまだ入らないの?」

「いま駿河が入ってるから、そのあと入る」

「じゃあ、最後にお風呂掃除お願いするね。ゲームばっかりして忘れちゃダメだよ」

「分かってるって!」

人の世話を焼いているとき、あいりは生き生きとする。だからオレは、わざとガキっぽい振る舞いをしている。腹の底を気づかれる心配はない。この双子の片割れは、驚くほど鈍いから。

あいりは足りないところが多すぎる。何事も、飲みこむまでに人よりずいぶん手間と時間がかかる。その愚鈍さは目に余ることもしばしばだが、努力を欠かさない健気な姿勢は評価に値するから、許せる。料理がその最もたる例だ。ひどい失敗を繰り返しても諦めずに、今ではプロ並みの腕前になった。身内の欲目もあるだろう。欠点すら可愛く思えてしまう。これが他人だったら、とっくの昔に切り捨てている。


オレは、「出来ない」ということが理解できない。
物心ついたころから、物事の仕組みをすんなりと把握できた。どうすれば無駄なく最良の結果が出せるのか、すぐに分かる。そして、その結果を実現するために必要な身体的アドバンテージまでもオレには備わっていた。思い描いた通り、自由自在に身体を動かすことができる。ゲームで言えばチートキャラ、つまり反則なくらい完全無欠ってことだ。

この天賦の才で、オレは五歳でデビューして以来、芸能界のトップを走り続けている。役者としてドラマや映画、舞台に出演するかたわら、歌手やモデル、エッセイの執筆まで、オレの活動は多岐にわたる。世界的にも評価の高い画家の父と、元トップアイドルの母。そんな親の七光りはあれども、オレ自身に実力がなければ、子どもの身空でこれだけの仕事を得るには至らなかったことは言うまでもない。万能なオレは、業界で重宝されている。

すべてを高いクオリティでこなせるオレからしてみれば、「出来ない」ことの方がありえない。でも、オレのような奴は世間において圧倒的な少数派。言い換えるなら、大多数の人間がオレの感覚を理解できないということだ。だから、他人の「出来ない」を理解できなくても、それを責めることはしないと決めている。ただ、そっと哀れむだけだ。

いつだって世界はオレを中心に回っている。他人など、蹴落とさずとも始めからオレの足元に控えているものだ。そんな些末なものを傷つけてやろうなんて思ったことは一度もない。
なかったはずだった。それなのに。――