「今日、アイツと会って来るよ」


いつものように玄関に座り靴を履く琢磨がそう言ったことに、私は洗い物をしていた手を止めました。


――アイツ。


それが誰のことを指すのか―答えを出すのに、長く考える時間は必要ありませんでした。


私たち家族が、過去、暮らした、あの団地の。




そうなのと、もうあの頃よりはずっと大きく、たくましくなった背中に相槌を入れると、琢磨はゆっくりとこちらを振り返り、何とも言えぬ表情でぽつりと零しました。


「……やっと、自分で会おうと思えたんだ」


その声のかすかな震えは、琢磨の中に居るあの子の存在がどれだけ大きいものなのか、物語っているようで。


それでも私は、ただ小さく頷いて、いってらっしゃいと笑むことしかできずに。

琢磨はそんな私に決心するように力強く頷くと、立ち上がってドアを開け、一歩、外へと足を踏み出しました。


目を細め、もう一度。

きっと届かない小さな声で、私は、その背をいつものように送り出しました。



「いってらっしゃい」