石川の惚けた切り返しに、高濱は呆れ顔に成り乍も、ズボンのポケットに手を突っ込み、石川に五百円を手渡すと「何時ものだ」と短く云い立ち上がる。
「ホットコーヒー、ですね」
 石川は、高濱から手渡された五百円を掌で弄び乍確認を取ると、高濱は短く「頼むよ」と軽い口調で云い、デスクに置いているインクの缶を開けて、残りの作業に向けてラストスパートを掛けた。

街頭が照らし出す小道を、高濱将之は草臥れた身体に鞭打ち、同じ位に草臥れた自転車に身体を預けて自宅に向けて走らせる。柊印刷所に入社して十年。高濱は然したる疑問を抱く事も無く、印刷所と自宅の往復で年を重ねている。朝は八時から仕事を始め、夜は十八時と云うのが定時のコースに成って要る単調な毎日。例外が有るとすれば、作業の工程や納期の関係で時間に追われる事位だ。この世に生まれて三十八年。高濱は自分の人生を振り返った際に感じる事は、二十八歳で結婚と同時に娘が生まれると云う、所謂デキチャッタ婚と云う部分を除けば、余にも有り触れた平々凡々な人生だと思う。だが、高濱はそんな平凡過ぎる毎日に十二分に満足をしている。人には、各々に器が有り、自身の器を越える行動は身を滅ぼすと云うのが、高濱の人生哲学の根底に有り、仮に、非日常な刺激や興奮を味わいたいと云う欲求が起きるので有れば、趣味の読書や映画鑑賞をすれば、平和な日常を壊さずに済むと考えている。