それから私は活動日でもない日に書道室に足を運ばせた。
うちの書道部の活動日は基本月曜日で他は自主練習という名の休みの日。まあ、講師に来てくれている先生が月曜日にしか来れないのだから仕方無い話だ。



(えっと——何処だっけ、)



環は床にバックを置き、部室にある本棚からとあるものを探し出そうとしている——

古典のところに焦点を絞ってみると——歐陽詢の「九成宮醴泉銘」を見つけた。この作品はいわずと知れた有名な古典作品だと私は思う。


(……私は基礎から固めなきゃ、)


この作品は書道初心者によく用いられる古典作品だ。九成宮醴泉銘というのは楷書の書き方を学ぶための基礎的な古典であって、いわば初心者用のお手本。だから、小学生がよく扱う書写の字体はこれにそっくりなのだ。


…いつまで経っても字が上達しない私は他の誰よりも努力をしなくてはならない。誰よりも膨大な量の作品を書き上げないといけないのだ。



「…誰よりも、はー君よりも……書かなきゃ」



書道室に一人、一点の狂いも無く書き連ねる環。——人一倍、木城葉澄のことを意識し、観察し、理解している人間は環しかいないのだ。


(…九成宮醴泉銘、この字には一点の狂いが無い。息をして書いては駄目)


そうしたら乱れが表れてしまう——












もっと——自分を信じろ。この書は偉大な作品なのだ——

この作品が書かれたのは唐だ。その当時の唐は律令制度や強力な軍事力など文武全般にわたってあらゆる組織制度を完備し、力と規矩を兼ね備えた世界最大の大帝国だった。比喩的に言うならば、中国の歴史上空前の大帝国唐が己にふさわしい書の姿として生み出したのが「九成宮醴泉銘」なのだ。


…時代背景を理解し、歐陽詢の不屈の精神を感じ取る——



ほら——意識をすれば、自然と筆は動いてくれるんだ。



呼吸すら聞こえて来ない、黒い線が、たったの黒い線が一つの作品に——一つの帝国を支配していたんだ。