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おいで
人の子よ

母の歌が遠くから微かに風に乗って聞こえて来る。普通の人間ならば、到底聞くことのできない呪いの子守唄。

センタービル街中のある高層ビルの屋上のへりに腰掛けていたHannaは、ゆっくりと立ち上がると、はるか遠い地上で蠢く諸々に目をやった。

吹き付ける風は強く、思わず目を細める。眼下に広がる人間の営みは、ライトと排気ガスの煙に彩られ、目眩がするようだ。

今日の風は乾いていて都合が良いと少しばかり考えて、手にしたマッチ箱を弄ぶ。

おいで
人の子よ

母リフィエラの衰弱は、目には見えないが、確実に進行している。

診察の合間にぼんやりしたり、ぐったりしたりすることが多くなったように思うし、

自分の中に、命そのものとして埋め込まれた女神の涙の力が弱まっているのが、何よりの証だ。

最近、複雑な思考をしたり活発に身体を動かしたりするのが辛い。

彼女が力を失えば、女神の涙の力も消えて、自分はきっと、死んでしまうのだろう。

母リフィエラは、その力を補い、命を繋ぐ為に、最後の方法を執行しようとしていた。

今、あそこに人間を近付けるわけにはいかない。彼女を、助けなければ。

迫る緊張をほぐそうと、先刻購入したライラシティの井戸水を口にしてみる。

「………。」

ペットボトルに詰められたそれは植物の化身として作られた自分には酷い味に感じられて、しばらく口に含んだ後、結局吐き出してしまった。

この街の水は、誰かに汚されているのだと、母が言っていたのを思い出す。

その「誰か」が、欲に溺れた薬屋だったなどと、葬り去ってしまった今となっては、自分と母以外の誰も、知り得るはずもないだろう。

大きなため息をつく。

人間によって作られた命、植物の生命エネルギーを命の糧として与えられ、植物の化身として生まれた命。

自分は、人間でもない。
ましてや植物でもない。
アンドロイドでもない。

只の、試作品。

誰の為に生き、誰の為に存在すれば良いのか。

最早、考えている余裕もない。

自分が何者であろうと、今やるべき事はひとつだけ。

Hannaは目を瞑ると、ゆっくりと深呼吸をして身体の力を抜き、人気のない裏路地へと、落ちて行った。