…曽根崎の森の下風音に聞え とり伝へ
成仏疑ひなき 恋の手本となりにけり


「…徳兵衛はさ」
「…?」
「お初の命を奪ったとき、どうだったと思う」
唐突な孝司の問いに、さぁ、と一言返す。そもそも曽根崎心中と言っても原文を読んだこともない。せいぜい知っているのは粗筋くらいだ。

「苦しかったんじゃない」
「来世で結ばれるのに?」
「愛した人間の喉笛に、心臓に刀を突き刺す。…永久に一緒に居られるかすらわからないのに、その苦しみっていう代価を払う。よっぽどの愛の賜物だと俺は思うけど?」
孝司の感覚は鋭いと思う。
こんな感覚を持ち合わせていて、あの崩壊寸前の矢島家にいた。他人よりも不幸を多く見て、他人よりも狂気に近い子供だった。その分、彼の感覚は汚いものも醜いものも知っている。
その子供が、愛だの永遠だの、そういった類の言葉を発する。

『絶望を見てきた人間ほど、愛だとか友情だとか、綺麗な物を求めるんだと俺は思うよ』

憐れで可哀相で、仕方ないではないか。尤も、彼は憐れみなど要らぬと言うのだろうが。