アリスズ


「キク…」

 名を、呼ばれた。

 これで、三度目だろうか。

 彼は、気をつけて名前を呼ぶ。

 付き合いは長くなってきたが、キクでさえこの程度だ。

 ウメやケイコに至っては、名を呼ばれたことが一度でもあっただろうか。

 簡単に、人の名を呼ぶことはない。

 だからこそ、ダイの言葉には嘘はない。

 彼にとって、言葉は決して軽いものではないのだ。

 だが。

 彼は、言葉よりも瞳の方が分かりやすい。

 まっすぐに向けられる視線は、決意を孕んでいた。

 決意の中心に、自分がいる。

 だから、その名を呼んだのだ。

「キク…」

「お食事の用意が整いました」

 言葉にはノッカーの音がかぶり、更に使用人の言葉がかぶさる。

 だが。

 ダイの耳には、そんな言葉など届いてもいないかのように、菊を見ているのだ。

「オレと…結婚してほしい」

 温度のある、言葉だった。

 これまで、菊が幾度か聞いたことのある、ダイの体温のある言葉だ。

 朴訥とした男だ。

 身体は大きいが、決して感情的になることなく、力は強いが、それを無為に振るうこともなく。

 おごることもなく、たいして欲もなく、ただやるべきことをやり通すだけの男。

 純粋な力と忠義と──そして、愛情を持っていた。

 それがいま。

 まっすぐに、菊に向かっているのだ。

 彼女は、それを打ち返した。

「賢者の妻にはなれんぞ」

 そもさん。

「ただの、男の妻だ」

 せっぱ。

 見事な──答えだった。