アリスズ


 トーが、いた。

 現れたというより、最初からそこにたたずんでいたような、そんな錯覚を覚えるほど、彼はその空気に馴染んでいたのだ。

 夕刻。

 菊の道場の前での出来事だった。

 気まぐれに都で歌っているところを、捕まえるしか出来ないだろう。

 そんな風に思っていたので、わざわざ出向いてくれたのには予想外だった。

「し…」

 トーの視線が、一度ぴたりと菊の顔の真ん中で止まり。

「…まい」

 すぅっと、家の方へとその視線は動いた。

 分割された言葉を、菊は無理につなげて考えることもせず、トーを見る。

「うちの相方の、つわりがひどくてね」

 そして、簡潔に告げた。

 瞬間。

 彼は、菊が驚くほど早く、家の中に入ったのだ。

 エンチェルクの、小さい悲鳴が聞こえてくる。

 おや。

 予想外の、素早い反応だった。

 端的な菊な言葉から、どれほどの意図をくみとったのか。

 歌が。

 家の中から、歌があふれだしてくる。

 慈しむ歌。

 トーが、景子の結婚式の時に歌った歌とは違うが、同じ喜びをそこから受け取ることが出来る。

 なんだ、嬉しいのか。

 入るのも野暮に思えて、菊は道場の脇の石に腰掛けた。

 景子の子や結婚を喜び、今度は梅の子を喜ぶのか。

 夜を厭わぬ人々が増えることを、トーは心から喜んでいるのだ。

 まるで、自分の子のように――いや、もう彼の中では、既に家族のような位置なのかもしれない。

 日が暮れてしまうまで、歌は続いた。

 ようやく、静かになって。

 トーが、ゆっくりと外へ出てくる。

 菊を見た。

 歌ほど感情の乗らない瞳が、しかし、まっすぐに彼女に注がれる。

「変わるのだな。本当に、変わるのだ」

 微かに震わせる自身の手を、トーは信じられないように見つめる。

「子が、増える。子の子が増える…世界は本当に変わるのだ」

 見上げる、空。

 昇る、月。

 震える手を、ぎゅっと拳にし――トーは月に向かって歌い始めた。