アリスズ


 男は、絵描きだった。

 キクの知り合いの、絵を描きに来たという。

 歌う、男。

 その男の話は、アルテンも噂で聞いている。

 婚儀の日の、祝福の歌。

 あの声の持ち主、だ。

 マリスと名乗った男は、婚姻の儀に間に合うべく、都へ向かっていたという。

 しかし、残念ながら彼の望みは叶わなかった。

 これから、神殿のツテを使って、宮殿に絵を届けに行くらしい。

 イデアメリトスの御方と、正妃になられた方の絵なのだ、と。

 それらの話を、アルテンは掃除をしながら聞いていた。

 男は、別の意味で床を這ったり、天井を見上げたりしていたが。

「私も、この後宮殿に挨拶に行くから、うちの荷馬車で送っていこう」

 別れのはずの朝を、彼は騒々しくしてくれた。

 それだけでも、アルテンにとってはありがたい。

 ウメと別れた後に、一人でいたくなかったのだ。

「それはありがたい…って、荷馬車?」

 マリスは、食いついた直後、怪訝そうな顔を向けた。

 ああ。

 キクの教育のたまものだな。

 道場にいるせいで、なおのことアルテンは自分が何者か忘れそうになるのだ。

 その肩書のおかげで、領地に帰らなければならないというのに。

 黙って掃除をしていたエンチェルクが、ささっと男の側へ寄り、耳打ちした。

 ぎょぎょっと、マリスが目をひんむいてこっちを見る。

 ようやく。

 ようやく、彼はアルテンが貴族であることを知ったのだ。

 自分の身分など、どうでもいいほど。

 ここは、居心地がよすぎた。

 志を持って暮らせば、平民の生活が貴族に決して劣ることはないと知ったのだ。

 それは、自分の血肉となった。

 平民が志を抱けるよう、良い領主にならねばならない。

 もう。

 キクには昨日、別れの挨拶は済ませている。

 ウメには── 一言だけ用意した。

 それ以上は、アルテンには言えそうになかった。