アリスズ


「キク…」

 何だ。

 綴られた自分の名前に、彼女は足を止めていた。

 何だ、ちゃんと発音できるじゃないか。

 彼女の名前を発音できる確率は、半分以下。

 いままで、身近な人間できちんと彼女を呼べたのは、アルテンくらいだった。

 そして、気づいた。

 初めて彼に、名前を呼ばれたことを。

 寡黙な男だし、必要なこと以外余りしゃべらないし。

 それでも、彼女の名前はちゃんとダイの中にあったのだ。

 しかも、とても正しい音で。

「ありがとう、ダイエルファン…私も、ちゃんとお前の名前を覚えてるぞ」

 振り返って、覚えている音をなぞってみた。

 ダイは。

 微かに、苦い笑顔になった。

 どこか、自己嫌悪しているようにさえ見える。

 何を嫌悪する必要があるのか。

 彼は、素晴らしい男だ。

 大地にしっかりと両足を踏みしめ、一歩一歩歩いてゆく男だ。

 御曹司に必要とされる限り、ダイはどこまででも自分の力で登ってゆくだろう。

 そんなこと、最初から分かっている。

 対する菊は、この世界に来てから特に、軽くあろうとした。

 もはや、祖国であったしがらみはなく、彼女はただ菊という一個人として、この世界で生きていけるのだ。

 それを、心行くまで満喫している。

 ダイを困らせるほどに。

 だが、きっとこれからも、菊は自分が選び取った道を歩いてゆくのだ。

 まだ。

 まだ、菊は行かねばならない。

 この身の内にある、若い衝動がゆるやかになるまでは。

「もうしばらく…困っててくれ」

 ようやく、菊はそう言えた。

 いまは、これしか言えなかったのだ。

「ああ…そうするしかないか」

 キク、と。

 たった一度しか呼ばなかった唇が──呆れた笑いを浮かべた。